2017年12月28日木曜日

2017.12.28 隠居志願

● 少しずつ隠居に変身していきたい。
 とりあえず,年賀状は出さないことにする。来ても返さない。2年もすれば誰からも来ないようになるだろう。
 地元の世話役などは間違ってもやらない。同窓会の類には参加しない。もちろん,幹事をやるなど,とんでもない。
 世間のことに口出ししない。天下国家はわが事にあらず。

● そのようにして,自分を世間から隔離していく。してみると,隠居というのは2つの成分でできていると思える。
 ひとつは,人に嫌われてもかまわないと達観すること。もうひとつは,過去を振り捨てること。
 どちらも意思が必要だ。そう簡単にできるとは思えない。

● 世間から自分を隔離するというのは,世間(他人)に依存しないということでもあって,そうであるなら,世間から隔離されたあとの自分の世界が,豊かに広がっているのでなければならない。
 そうでなければ,残りの人生を全うできないだろう。「隠居=やることがない」では,人生は破綻する。

● 隠居とはつまり,死と再生の通過儀礼を経ることでもある。今までの自分をいったん殺す。なかなかにラディカルな作業になるはずだ。

● ぼくの場合だと,最後までできないで残りそうなのが,ネットを切ることだ。SNSを含むインターネットから自分を隔離できるかどうか。
 天下のことはわが事にあらずと言いながら,ネットで意見ともいえないものを垂れ流す。どうもやりそうだな。
 逆にいうと,現在はネットがあるから,リアルでの隠居に向かう際の障壁は低くなっているとも言える。リアルの世界にいる自分とネット上の自分。自分がふたりいるようなものだから,どちらかを消してもどちらかが残る。

● 当分は勤めに出るから,職場という世間とは付き合わなければならない。完全隠居は引退後だ。けれども,準備はしておこう,と。
 と言いながら,なんだか若い頃から自分は隠居を考えていたような気がしてきた。20代からの40年間が隠居の準備期だったような。だとすると,はなはだ拙い40年を過ごしてしまったことになる。

 ただ,隠居ってのは老人ニートでもあるわけだ。若い人がニートになることは歓迎されないけれども,老人がニートになるのは隠居という言葉を奉ってむしろ推奨されてきたのだろう。
 老害を防ぐための先人の知恵であったろうかと思ってみる。

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