2018年3月31日土曜日

2018.03.31 桜を見て歩く

 ● 30日の昼休み,真岡は五行川の堤を歩いてみた。春のうららの五行川。
 この時期のこの陽気とこの風景は,人を狂わせるところがたしかにある。生命の息吹がそこかしこに満ちるんだよね。ムワッとするほど。
 いろんな事情でそれについていけない人にとっては,少々きつい時期かもしれないね。



● 今日の午前中は氏家をウロウロした。まずは,塩谷広域環境衛生センターに粗大ごみを持っていく。ここも隠れた桜の名所?
 その足で「BIG」に。これは桜ではありません。コブシでありましょう。



● 午後は宇都宮大学工学部前の桜並木。桜並木なんだから,この時期が最も華やぐ。
 今年は雨にうたれなかった。わりと珍しいことですよねぇ。



● 宇都宮大学工学部のキャンパスにも桜。この時期は市民に開放。大勢の花見客で賑わっている。去年までは屋台が出ていたのに今年はないね,と言っていた人がいた。その分,近くのコンビニはお客さんがギッシリ。




● 桜って何でこんなに人を惹きつけるんだろうねぇ。サクラって語感がいいから? 意外にそれがあるかもしれない。
 ピンクの密集感だろうか。フワッとした浮遊感のようなものを感じさせる。空間の占有面積が大きくなるからだろうか。加えて桜の多くは大木だ。花の位置はかなり高いところになる。地面を見て発見するのではなく,空を見あげることになる。
 よく言われるように,すぐに散るからだろうか。散る桜,残る桜も散る桜,って。

2018.03.31 すし華亭 簗瀬店

● 外食づいているかなぁ。今日は「すし華亭」簗瀬店に。相方の実家の近く。ぼくが行くのは,これが3度目だと思う。

● その相方がネットで500円のクーポン券を当てたので,それを使うために行ったんだが。そのクーポンを使うには3,000円以上注文する必要がある。
 店側の思う壺というかなぁ。こういうのに乗っかるバカが自分のすぐ近くにいるとはなぁ。

写真はネットから拝借
● 鮨は値段に比例する食べものの典型らしい。ここでポンポンと食べると一人2,000円になる。ランチとしてはちょっときつい金額だけれども,たしかに百均店とは別物。
 で,自分にはこの程度で充分で,これ以上のものを(自分に)食べさせても,その良さを感知することはできないだろうと思われた。

● たとえば,ベルリン・フィルやウィーン・フィルの生演奏を聴いても,N響との違いを聴き分けられる自信はない。あらかじめベルリン・フィルだ,ウィーン・フィルだと分かっているから,さすがに本場は違うね的なことを言うのであって,それと知らずに聴いたら,まず区別はつくまい。だから,自分にベルリン・フィルやウィーン・フィルの生演奏を聴かせるのは無駄なことだと思っている。
 それと同じで,ぼくに「すきやばし次郎」や「久兵衛」の鮨を食べさせるのは,それこそ猫に小判を与えるようなもので,まるで意味がない。

● 鮨に関して,ぼくの上限は「すし華亭」としておくのが妥当である。回転寿司が上限とは情けないとはあまり思わない。情けなどあろうがなかろうが,鑑賞能力がそれしかないのだから,致し方がないのだ。

● 「すし華亭」を経営しているのは,(株)奴寿司。「すし華亭」の他にいくつかの業態の鮨屋を栃木県内で展開している。宇都宮駅ビル「パセオ」にできた屋台寿司「忠治」も奴寿司の経営だったんだねぇ。
 食べ物屋って当たるとすごく儲かるんだろうけど(ベンツに乗るなどすぐだろう。もし乗りたければね),長く続けるのはかなり難しいように思う。流行り廃りもあるだろうし,お客は気まぐれに飽きたと言うし。
 奴寿司は新陳代謝を繰り返しながら,長く続いているようだ。それだけで大したものだと思う。

● ここで今年初めての鰻を喰った。2貫で320円だったかな。充分に旨かった。今年はもう鰻は食べなくてもいいや。

2018年3月30日金曜日

2018.03.30 高校生の前に跪く

● 今日の下野新聞。栃女高オーケストラ部の紹介記事。

● 栃木県内でオーケストラ部がある高校は6校(だったと思う)。総文祭での演奏っていうのは各校持ち回りになっているんだろうか。去年は鹿沼高校が出たのではなかったか。
 学校側(あるいは父兄側)には経済的な負担が生じるだろう。意欲のある生徒は当然やりたいだろうけどねぇ。

● 弦は初心者が多いという。高校生の可塑性には端倪すべからざるものがあると承知している。ども,以前に別の楽器をやっていたんだろうね。弦は高校に入ってから始めたとしても,演奏経験それ自体は中学校でやっていたんだと思いたい。
 そう思わないと,ぼくの中で平仄が合わなくなる。本当に楽器そのものに触るのが高校生になってからだとすると,それでどうすればチャイコフスキーの6番を演奏できるようになるのか,ちょっと想像がつかないんだよ。

● それとも,高校生はできるんだろうか。高校に入って始めて楽器に触れたのだとしても,「悲愴」をともかくも演奏してみせるようになるんだろうか。
 だとすると,「端倪すべからざるものがある」などとすましている場合じゃないぞ。彼女たちの前に跪かなければいけない。

2018年3月29日木曜日

2018.03.29 烏山の「クローバー」

● 烏山は「クローバー」で昼食。着いたのは午後2時だったんだけど,駐車場は満杯。しばらく待った。平日でもこうなのか。繁盛してますなぁ。
 繁盛しているのには理由がある。長く続けていると,店によってはその“理由”が霞んでくることがあるんだけど,ここに関してはそこがしっかりと根づいている(と思える)。

● 孤高の道を行くのではなく(行こうとすれば行けるはずだが),地域との付き合い方も巧い。利用のされ方も心得ている。
 烏山の付加価値を高めているが,烏山という自らが属する地域にたいして謙虚であるのも,人気の理由のひとつだろう。
 ただし,そういうものは店の基本(味,価格,接客)が盤石であって初めて意味を持つもので,何と言っても基本が盤石であるのが(つまり,それが“理由”でもある),この店の魅力の8割を形成している。

● 那須烏山市の観光PRビデオが流れていた。こういうのはどこでも作るようになっているんでしょうね。どこでも作るんだから,那須烏山市だけ作らないというわけにもいかないだろう。
 しかしなぁ,こういうので観光客が増えてくれれば苦労はないよね。自転車絡みのイベントがけっこうあるんだろうか。これまたどこでもやっていることで,新味に乏しいというか。

● 烏山で最もお客を呼べでいるのは,この「クローバー」ではないかと思う。横並びのつまらないことをやっているんだったら,「クローバー」を旗印にして,烏山を盛りあげようとするのがより効果的だと思う。
 市をあげて一民間企業を盛りたてるのはできない相談だ,とは思うんですけどね。っていうか,「クローバー」にとってはかえって迷惑かもしれないねぇ。

● ネットでしばしば目にするのが「魚秀」。魚屋さん。ほかに,旨い蕎麦屋が烏山にはいくつもあるようだ。そういうところでネットワークを組めればとも思う。
 が,ぼくが思いつく程度のことは,すでに試みられているのかもしれない。地元ではもっと真剣に考えてるよね。

● 「クローバー」のウェイティングルームには各種の雑誌が置かれている。それで待つのが苦にならなくてすんでいるんだけど,あんまり古いのは処分した方がいいのじゃないかなぁと思ったりもする。
 いや,読みたいからとっておいてくれ,っていうお客さんがいるんですかね。

2018年3月28日水曜日

2018.03.28 「みやこ家」でカレーつけ麺

● 氏家の「みやこ家」でカレーつけ麺を食す。半ライスが付いてきて,最後は汁をご飯にかけて食べる。これでガツンと来て,飽満感に苦しむことになるんだけど。
 だから,カレーつけ麺だけは並盛りにしておかないといけない。

● 相方は“あっさり味噌そば”。つまり,味噌ラーメン。あっさりといっても,かなり濃厚。“濃厚味噌そば”もあるんだけど,こちらは汁がペースト状になっている(というと,少し大げさ)。
 「登竜」の味噌ラーメンとどちらが旨い? と訊いたところ,味はこちらが好き,値段は「登竜」が好き,と返ってきた。

● ぼくは「みやこ家」の“あっさり味噌そば”を食べたことはないんだけど,たぶん,「登竜」の味噌ラーメンはじんわりと旨いのに対して,「みやこ家」のはわかりやすく旨いのだと思う。
 じんわりと旨いのは理解されるまでに時間がかかる。わかりやすく旨いのは飽きられやすいかもしれない。

● ところで,氏家にはこの2つのほかにも,いくつかラーメン店がある。その“いくつか”の中の2つには,行ってみたことがある。どちらも旨かった記憶がある。お客も入っていた。
 ラーメンとは関係ないけれど,氏家には「Niwa」という全県区のビストロもある。ぼくはこういう店を洋風居酒屋として使ってしまうんだけど。

● ひょっとすると,氏家は食の街かもしれないと思うんですよ。その中心に位置するのは,古くからここで商売をしていてなお廃れないでいる「登竜」かなぁと思っているんだけどね。

2018年3月26日月曜日

2018.03.26 地域振興にジジイは口を出すな

● 右は今日の下野新聞コラム。自転車の魅力を紹介している。

● その自転車で街興しをするという鹿沼の試み。地域の魅力を発掘するのは,だいたいヨソモノ,ワカモノ,バカモノと相場が決まっているらしい。長くそこに住んでいる人には,あたりまえになって見えないものが多いのだ,と。
 このコラムにおける仕掛人も,ヨソモノでありワカモノだ。

● 自転車の魅力というか可能性はまだ発掘され尽くしていないかもしれない。この2つ(ヨソモノ・ワカモノ+自転車)のコラボは何ごとかを生むかも。
 ただし,だ。レンタサイクル的なものが成功した例はあまりない。無料にしてもダメだ。どうしても安物の自転車にしてしまうのが一因かとも思うんだけどね。あと,メンテが行き届かないこと。
 自分の自転車で来てくれる人を増やせるといいんだが。その方向での企画らしいが。

● 1日に100kmを普通に走るヘビーユーザーというか,スポーツライダーを捕まえるのは無駄なこと。彼らは走ることそれ自体に興味と快感を感じる種族であって,彼らにとって風景だとかグルメだとか地域の魅力だとかは二の次三の次なのだ。食べものなんて,コンビニで調達できるもので充分なのだから。
 そこまでは行かないんだけど自転車が好きという人がターゲットになるんだろうか。

● ところで。役所や企業を定年退職して,次は地元に貢献したいと動きだす人たちが一定数いるようだ。彼らのFBやTwitterを見ると,一生懸命に考えて動いていることがわかる。そこに私心はない。地元を良くしたい,自分の知見や経験を役立ててもらいたい,と思っている。
 しかし,そういうものをぼくは一切認めない。リアリズムに徹すれば,そうなるしかない。

● 過去の長い人はダメなのだ。その人の考え方,価値観が形を成したのは,おそらく昭和40年代。そこで形を成してしまったものが,現在の空気に適応できるはずがない。
 現在や近未来が求めるものに対応できるはずがないのだ。個人の資質には関係なく,そうなのだ。
 なぜなら,彼らに理解できるものは過去だけだからだ。決着がついている過去をモノサシにして測る癖を脱することができないからだ。

● 現状を維持するものを生みだすことはできるかもしれない。が,現状をブレイクスルーするものを生むことを彼らに期待することは間違っている。彼らが自分にそれを期待しているとするなら,自身を相対化できていないからに過ぎない。
 ヨソモノ,ワカモノ,バカモノに任せて,手を引くのがよい。邪魔をしないのがよい。それが彼らにできる唯一の地域貢献だ。

● では,過去の長い人は何をすればいいのか。自分の好みや興味に没頭することだと思う。年を取るとこんなに素晴らしい時間を過ごすことができるのだよ,と範を示すことだ。若い人たちに多少なりとも憧れを抱かせる生き方をすること。
 本が好きな人は読書に没頭すればいい。やはり本を好きな若者の誰かが,その姿を見て羨ましいと思うかもしれない。2人か3人でいいのだ。大向こうに受ける必要はまったくないのだから。
 旅行が好きな人は旅行に行けばいいのだし,釣りが好きな人は釣りに出かければいいのだし,自転車が好きな人は自転車に乗ってればいいのだ。難しいことは何もない。

● そのためには,他者や地域と関わるより,自身に専念するのがよい。いや,他者にかかずらっている暇などないはずだ。
 もし,老いてなお,自分固有の好みや興味がないというなら,あってもそれを追求するだけの体力や集中力を欠いているなら,選択肢はただ一つ。消え去るのみ。
 そこで消え去らないで,他者や世間にもの申してしまうのは最悪だと心得よ。昔話は何も生まないのだ。聞かされる方は迷惑なだけだ。

● しかし。自分固有の好みや興味がないという老人がいるんだろうか。
 体力や集中力も,若い人と競う必要はないのだ。70歳には70歳の,80歳には80歳の,体力と集中力があるのではないか。
 1冊読むのにひと月かけたっていいではないか。たくさん読んでいると自慢するのが目的ではないのだよ。

2018.03.26 栃木県内各地の観光案内パンフ

● ディスティネーションキャンペーンということで。県内各地の観光案内パンフが最寄駅に置いてあった。3種。那須町と芳賀郡と下野・壬生。
 これを見て思うのは,横並びということ。サイクリングマップの作成だとか,いちご狩りだとか,そば打ち体験とか。
 横並びで何かやるんだったら,それは何もしていないのと同じではないか。よそでやっていることをウチでやらなかったら遅れてしまうってことなんだろうけど,それって大昔,隣がテレビを買ったからウチもっていうのと同じだよなぁ。

● 横並びだと,何かをしてもその何かはまったく立ちあがって来ない。その場に埋もれてしまう。
 なので,その土地がもともと持っているもので雌雄は決する。この3つの中では圧倒的に那須ということになる。本格的な温泉地と那須岳を抱えているのが強み。高原であることも。

● では,その土地がもともと持っているものを超えるものはないのか。ある。それは,つまり人なのだと思う。人を惹きつけるものは人に若くはない。
 魅力的な個が増えることが最も肝要だ。魅力的な個人。魅力的なお店。そうした個の魅力の総体が最も強い観光資源にもなるだろう。
 公共や業界が打ちだすいわゆる施策は,どうせろくなものじゃないのだ。そんなものに期待してちゃダメだ。

● ちょっと待て。那須のような,その土地が持ってるものにアドバンテージがあるところの人たちが,魅力的な人ばかりになったら,どうなるのか。結論はハッキリしている。凡百の地に住む人たちは,観光で喰っていくことを諦めるべきだ。
 しかし,なかなかそういうことにはならないから,ぼくらがつけ入る隙きは,未来永劫あるに決まっているのだ。別の言葉で言うと,いつだって希望はあるのだ。

2018年3月22日木曜日

2018.03.22 久しぶりに地元の「ふく田」で昼食

● 昼食はわが家からほど近い「ふく田」さん。昼食時には役場の職員で混み合うという話も聞くので,すこし早めに行った。
 2年前に法事でお世話になった。以来,行ったのは2,3回にとどまっている。

● なぜかといえば,こちら側がラーメン屋とか回転寿司とかファーストフード店にしか行かないからだ。ぼくは「吉野家」で牛丼並と生卵を注文して(420円),卵かけ牛丼にして食べるのをこよなく気に入っている。これで「吉野家」が「料亭よしの」に変わると思っている。
 のだけれども,それはレトリックというものであって,吉野家は吉野家だ。吉野家の牛丼は充分に旨いけれどもね。

● 「ふく田」のおまかせ膳。天ぷら,刺身,大和芋のとろろ,茶碗蒸し,サラダ,おしんこ。食後にコーヒーかアイスクリームが付く。
 特筆すべきは味噌汁の旨さだ。豆腐とナメコ。あと,おからの和え物もね。スーパーのおからをおからと思っちゃいけませんわね。

● これで1,000円(+税)。420円の卵かけ牛丼より実質安いと思う。
 となると,次なる疑問はこれで採算が取れているのかということだ。おそらく酒を飲んでもらわないと儲けは出ないのじゃないか。
 仮に単体では採算を割っているとしても(割っていないんだろうけど,儲けシロはあまりないだろう),そこは店側の戦略や考え方があるんだろうから,深い詮索は無用ということにしておく。

● で,少し反省した。お手軽なラーメンとか牛丼とか回る寿司とか,そっちばかりに流れないで,近くにあるこういうお店を盛りたてないといけない。ラーメン屋やファストフード店に行くのは半分にしよう。
 自分が健啖家でいられるのもせいぜいあと4年ではないか。その間に,こういう店に行っておかないと。
 今はまだ“いいものを少し”の境地には至れていない。健啖家を卒業すれば自動的にその境地に行くというものでもないだろう。
 だから,いつだって,“今”動かないといけないよ,って話だよねぇ。

● 要するに,戸籍はこの町にあるのに,この町とは何の関わりも持たないままで一生を終えました,ってことになっては少しばかり寂しいかもしれないのだよね。
 ただね,2年前にも同じ反省をしたはずなんだよね。

2018年3月21日水曜日

2018.03.21 「登竜」のカレーライス

● 相方と氏家の「登竜」で夕食。かねての予定どおり,辛さ3倍のカレーライスを注文。
 10倍まであるんだけれども,辛いのが得意じゃないので,まぁ3倍くらいがいいところだろう,と思って。

● ところが,カレーが届いた瞬間,自分にはキツイなとわかった。ほら,辛さって匂いがあるじゃないですか。
 やはり,ぼくの限度を超えていたようで,少々手こずってしまった。

● 10倍を注文する人がいるんだろうか。高校生の中にはいるだろうな。粋がる可愛い男の子。
 辛いを通り越してジンジンとしびれる感じになるだろうな。数秒遅れて,口の中が猛烈に熱くなるだろう。もはやカレーですらなくて,刺激を固めたような,食べものとも言えないものになっているだろう。
 自分で試してみればいいんだけど,ぼくがやっても可愛くないのでやめておく。

● 次は2倍にしておこう。たぶん,そのあたりがぼくには適当だろう。
 まぁ,「登竜」でカレーを食べなくてもいいわけだよなぁ。「登竜」の本流はカレーじゃないから。本流が旨いところは本流外も旨いんで,カレーも食べてみたくなるってことなんだよね。

2018年3月19日月曜日

2018.03.19 自分はオタクなのか

● 茂木健一郎『成功脳と失敗脳』に次のような文章がある。
 最近よく口にする言葉は,「勉強ができるというのは,一つの欠点ですらある」というものです。(中略)勉強ができるというのは典型的なオタク体質だということがいえます。オタクというのは,やはりコミュニケーションが苦手な人が多く,広い世界が見えていないことが一つの欠点として浮かび上がります。さらにいえば,オタクは他人と何かをするといったコラボレーションが苦手という側面もあります。(p195)
● ぼくは勉強できたというほどできたわけではないけれども,他人とのコラボが苦手というのは,そのままあてはまる。
 勉強できない人の中にもそういう人はいるってことだね。勉強できるできないは,オタクかどうかとはあまり関係ないかもしれない。

● ホントに団体行動,集団活動を苦手とする。その底を覗けば,人間嫌い,人間恐怖的なものがあると思う。息子を見ていると,自分以上にそうなのではないかと思える。こういうのは遺伝かね。
 だから,当然,他人とのコラボは苦手だ。やってみようと思ったことはない。自分一人で誰にも邪魔されずに生活できればと思っている。
 よく,一人でご飯を食べても美味しくない,という言われ方をする。じつは,ぼく,これがまったく理解できない。旨いものは一人で食べても旨いし,不味いものは大勢で食べても不味い。
 そうじゃなくて楽しく食べれば美味しいでしょ,と言われれば,そのこと自体に異議をさし挟むつもりはない。ただ,何人かで食べるのを楽しいと思うことは極めて稀だったってことなんだよね。

● ぼくみたいなタイプの人間は,なかなか世界が広がっていかない。自分一人でできることなんて知れてるわけだから,大きなことはできない。
 そこはよくしたもので,大きなことなどしたいとは思わない。人を雇用して起業しようなどとは考えたこともない。端からできるわけがないと思っているんだから,やろうとするはずがない。

● オタクかそうでないかということも含めて,人のこうした性格というのは,努力では変えられないし,変えようとしない方がいいのだと思う。
 だっていつからそうだったのかといえば,少なくとも小学校1年生のときはそうだった記憶があるからだ。たぶん,生まれ持ってのものだろう。そういうものを努力なんぞでどうにかできるわけがないではないか。

● そうではなくて,そういう自分に合った居場所を探すことなのだ。ぼくの場合だと一人でできる仕事をした方が良かったのかもしれない。たまたま大学の4年間は自分としては例外的に社交的にふるまえたので,このままサラリーマンになってもやっていけると疑わないまま就職してしまった。
 結果においてどうにかこうにか定年にたどり着いたわけだけれども,サラリーマンとしてはずっと冴えないままだったと思う。大学時代の余韻を残していた最初の2,3年は別として。
 多くの収入を得たい,お金を儲けたいというのも,何も起業だけが唯一の手段ではない。個人でできる投資もある。

● 世界は自分を中心に回っているわけではない,勘違いするな,と昔はよく言われた。たぶん,今も同じだろう。
 が,世界は自分を中心に回っているのだと思うくらいでちょうど良いのかもしれない。自分を変えようとしないっていうのはそういうことで,世界の中心に自分がいるのなら,その中心からちょっと動いてみるだけで,自分に合った居場所が見つかるはずだと思えるのではないか。

● 言うほど簡単ではないけれども,世間の常識を自分の常識にしないこと。世間の成功モデルに自分をあてはめないこと。若い頃からそれができていれば,自分の人生も随分と違ったものになったかもしれない。
 しかし,まだ終わったわけではない。老境にさしかかった今,あらためて自分にそのことを言い聞かせたいと思っている。

● そうして,決して自分の性格を変えようとしないこと。それは所与の前提として受けとめること。
 つまり,他人とのコラボなど苦手ままでいいのだ,と居直るってことなんですけどね。

2018年3月18日日曜日

2018.03.18 JR駅にある栃木観光案内の最新パンフ

● JR駅に置かれている各県の観光パンフ,「ねまるちゃ」以外は手に取る気もしない。おそらく各県の観光振興担当課が特定の業者にほぼ丸投げして作っているんだろうし,ひょっとするとその業者は広域展開をしていて,1社が複数の県のものを作っているのかもしれない。
 したがって,どれもこれも見栄えに違いがないものになる。

● ところで。東日本大震災のあと,自分のところには来なくていいから,みんなで被災地に行きましょう的なキャンペーンをやるところが出ないかと思った。けっこう多くの人が思ったんじゃなかろうか。
 が,そんなところはひとつもありゃしなかった。東北に何があろうと,熊本に何があろうと,自分たちも喰っていかなくちゃいけない。
 それでいいのだとは思うんだけど,あのとき栃木が“栃木じゃなくて東北に行きましょう”とやっていれば,「すげっ,栃木,かっけー!」となって,十年一日のごときPRを続けるより,よほどPR効果があったろうに。

● 先日,草津で火山事故が起きた際に,別府が“草津に行こう”とやった。あれで別府は男をあげたもんね。
 ああいうのって,裏を読もうと思えばいくらでも読めるんだけど(っていうか,裏はいくらでも想像で作ってしまうことができる),王者の風格だなぁというところに行き着くものだよ。
 組織ではなかなかそういうウルトラCはできないものだ。声の大きな賢者がいたに違いない。

● PRの肝は目立つことで,目立つためには人がやらないことをやらなくちゃ。各県とも同じような媒体を使って同じような手法で同じようなことをやってるわけだから,その中に入ってしまうとひとつも目立たない。
 各県が談合して,一斉にこんなことはやめましょうや,とやってくれた方が,無駄な税金を使わなくてすむ。だいたい,行きたい人は,書店で「るるぶ」や「まっぷる」を買ってるからね。

● さて。デスティネーションキャンペーンとやらで,栃木県では観光振興に力を入れている(=税金を使っている)。その効果はいかほどなんだろうか。
 右の写真は,最寄りのJR駅にあった最新の栃木観光案内パンフ。表紙のモデルさん,久々の登場で,お名前を“浦まゆ”と申しあげる。彼女,このパンフの中ではとんでもない活躍ぶりで,けっこう以上にハードな撮影になったのではなかろうか。

● この冊子,54ページの堂々たる観光案内書で,情報量も相当なもの。栃木県に住んでいても,栃木県のあらかたは知らないものだが,このパンフに目を通すとかなりの栃木通になれそうだ。
 もっとも,県というのは地元意識を持つには広すぎるし,その中で完結する生活エリアとしては狭すぎる。府県という枠組みを維持する必要があるのかどうか,というそもそも論は残る。

2018年3月16日金曜日

2018.03.16 ねまるちゃ 春号

● JR駅に置かれる各県の観光案内パンフのうちで,最も出色な「ねまるちゃ」の春号。表紙の装いも一気に変わって,明るい開放的な雰囲気だ。
 今冬の北陸は豪雪に見舞われた。春の訪れがはっきりしてきて,北陸の人たちは胸をなでおろしていることだろう。

● が,観光資源という点では,冬の北陸は強い。旨い魚がよりどりみどりだ。華やかで彩りがある。富山でいえば,寒ブリとカニ。
 海はいろいろと厄介なこともあるんだろうけど,海の幸を目玉にできる。しかも,魚には旬が付きものだ。冷凍技術によっていつでもカニは食べられるとはいっても,旬はヒキが強い。
 しかも,日本人は何だかんだ言って,魚が好きだ。回転寿司の隆盛を見よ。

● このパンフによると,春はホタルイカの漁期にあたるらしい。しかし,ホタルイカでは寒ブリやカニほどの目玉にはなりにくい。
 夜の星座を思いだす。冬の星座はオリオン座をはじめとして,おうし座,おおいぬ座など,絢爛豪華だ。春になると,ややスカスカになってくる。

● 富山の春といえば,やはり砺波のチューリップだろう。が,惜しむらくは春は桜が猛威をふるう。桜の前にはすべてが霞む。
 ぼく一個は花見なんぞというものは,一度か二度,職場のつきあいで行ったことがあるに過ぎない。戸外で酒を飲んで何が楽しいのかと思う。だいたい寒いしね。酒は屋内,しかも穴ぐらのようなところで飲むのをもって最上とする。
 しかし,そうはいっても桜を無視できる自信はない。

● 「ねまるちゃ」は創刊号(?)からの読者であるんだけど,富山に行ったのは2回しかない。2度目が30年前。この表紙のお嬢さんはまだ生まれてなかったろうな。
 新幹線にそれば造作もないことはわかっているんだけど,遠いんだよなぁ,北陸。心理的なものでしょうね。
 機会があれば行ってみたいと思うんだけど,“機会があれば”といっている時点で本気じゃないってことだもんな。でも,少なくともあと1回は行くよ。そのつもりだよ。

2018年3月15日木曜日

2018.03.15 プロ棋士はこれからどうなる?

● 昔読んだ,将棋の芹沢博文九段のエッセイにこんなのがあったと記憶している。
 囲碁の藤沢秀行棋聖と懇談していたおり(この2人のことだから,当然,酒を飲みながらだろう),囲碁や将棋の奥義を100とすれば,自分たちはどれほど囲碁や将棋をわかっているだろうか,という話になった。
 芹沢九段は4か5と答えたのに対して,藤沢棋聖は2か3と答えた。芹沢九段が,あ,自分は思いあがっていたと思った,という話だった。

● このあたりが将棋や囲碁のロマンの源泉なのだろう。底知れないほどに奥が深いゲームであること。
 将棋界では中学生の藤井六段の活躍と羽生竜王の国民栄誉賞,囲碁界でも井山七冠の国民栄誉賞で,活気に溢れかえっているかに見える。将棋人気は時ならぬものだ。

● が,このロマンの射程距離はいかほどなのか。すでにプロ棋士でもAIに歯が立たない。ひょっとしたら,AIが100のすべてを解き明かすことがあり得るかもと思わせる。底知れないほどの奥の深さを,底が見えるくらいまでにはするのではないか。
 AIはしかし戦いのドラマを生まない。やはり人間でなくては,というところで将棋界も囲碁界も存在することを許されているように思えるのだが,これからもそうであり続けるか。
 ドラマを生む基盤そのものをAIが突き崩していくことがないと言えるか。

● 棋戦のスポンサーになっている新聞社は,人口減少やネットへの移行,自らの報道姿勢の問題などから,各紙とも読者を減らしている。三大紙の少なくともひとつは消滅するかもしれない。棋戦のスポンサーを続ける余力など,なくなってくるのではないか。
 日本将棋連盟の存続自体が危ぶまれるような事態が発生することもあり得るのではないか。将棋も囲碁も,それ自体が消滅してしまうことは絶対にないけれども,プロ棋士という存在は消えるかもしれない。

● もちろん,そうならないように願っている。新聞社に代わって新たなスポンサーが現れてほしい。
 そうはいっても,棋譜や観戦記を掲載して出資分を稼ぐというのが,新聞社の狙いだったのだろうから,新聞社に代わるスポンサーを探すといっても,なかなかに困難だろう。

2018年3月14日水曜日

2018.03.14 氏家「登竜」で味噌ラーメン

● 相方と氏家の「登竜」に。相方はここでは味噌ラーメンしか注文したことがない。あ,チャーハンも少し食べたことがあった。
 ラーメンの王道は醤油でしょ。麺を味わうのに一番いいのは醤油。ので,「登竜」で麺を食べるときは,醤油をメインにしている。

● カップ麺にしても,日清のカップヌードルも嚆矢となったのは醤油だったでしょ。
 海鮮とかカレーとか担々麺とかチリトマトとか,今のカップ麺は百花繚乱の趣を呈しているけど(外国の麺まである),一番売れているのは何なんだろ。ひょっとして最初にでた醤油のカップヌードルではあるまいか。

● のだけれども,今回は,相方に合わせて味噌を注文。野菜たっぷりの味噌ラーメン。ラーメンの王道は醤油と言ったあとで何なんだけど,「登竜」の一番人気はたぶん味噌。
 野菜はキャベツ,モヤシ,ニラ,ニンジン。そこに刻みネギを惜しげもなく載せてある。

● じんわりと旨いから,飽きることがないんだと思う。相方が味噌に決めているのは野菜が食べられるからだと言っているけれども,その前に“飽きない”ということがあるだろう。
 じんわりと旨くするにはどうすればいいんだろう。秘訣というものがあるんだろうか。あまり突き詰めてしまってはいけないような気がするし,突き詰めないとダメなようにも思えるし。

● とにかく。「登竜」のない氏家はもはや氏家ではない。と,ぼくは思っている。「登竜」の存在感というのは,氏家でも別格のような気がしてきている。
 氏家には,ラーメン店に限っても,「登竜」以外にたくさんある。そのいくつか(といっても3つだが)にはぼくも行ったことがある。それぞれに旨いのであるけれど,「登竜」に戻ってしまう。

● ところで。ここのカレーは辛くなくていいなと思っていたんだけど,辛さは増やせるんでした。10倍まである。せいぜい3倍か,ぼくの場合は。
 よし,次は辛さ3倍のカレーライスを注文してみるか。

2018年3月12日月曜日

2018.03.12 オールドパー

● ぼくには不似合いなこのウィスキー。どういうわけか家にあったのだ。容赦なくハイボールにして飲んだ。
 といっても,今どきはスーパーで売ってますよね。しかも,3千円で買える。

● 大昔,1万何千円かした頃は,こいつを珍重する人がいたものだ。味じゃなくて値段に幻惑されていたのだろうと,意地悪くも思っている。それが証拠に,今は特別扱いされることはなくなった。
 そういうのって,今でもあるだろう。世に存在するグルメ,食味評論家の人たちの中には,稀少性,価格,すでに確立された評判を食べている人がけっこういるだろう。料理そのものではなくて,稀少性や価格や評判を味わっている。
 分野を問わず,評論家は間違えるのが仕事であるから,それはそれでいいと思う。間違えるのを仕事にしている評論家は,今後は存続が難しくなるかもしれないけれども,今は存在を許されているのだから,堂々と間違えればいいのだ。

● ひと口飲めば,こいつがスコッチであることはわかる。が,スコッチ=旨い,が,そう安々とは成立しがたくなっている。
 スコッチがウィスキーの本流であって,世界のウィスキーはその本流にいかにして近づくかが課題だった時期があった。サントリーにしてもニッカにしても,そのための試行錯誤をたくさん重ねて現在に至っているのだろう。そしてその成果は確実にあったのだろうけれども,スコッチ絶対ではなくなっているようだ。
 多様性の追求というかなぁ。スコットランドで誕生して大きくなったウィスキーという枠は維持される。その枠内で一点に向かっていくのではなく,ソチコチに散らばる方向になってきたような印象。

● ま,ぼくはニッカならクリアブラック,サントリーならトリスを普段は飲んでいるくらいだから,ウィスキーの味にはうるさくない。というより,細かい違いは気にならない。いや,わからない。
 ぼくは食味評論を業しているわけではないから,気楽にわからないと言ってしまえる。違いのわからない男だよ,と。もっというと,そんな違いなどわかったところで仕方あるまいとも思っている。
 だから,評論家が間違うことに対しても寛大である。

2018年3月11日日曜日

2018.03.11 大学はなくてもいい???

● 大学という名が付く学校を卒業してしまった(しかも,2つも。アホか)。ので,大学のいい加減さはわかっているつもり。そういう前提の話だ。

● 右の写真は2018年度のNHKテキストナビ。メインは語学。
 ○○外語大学というのがいくつかあるけれど,NHKのラジオとテレビの語学講座でちゃんと勉強すれば,そんなところを卒業した学生のアベレージよりもはるかに上になるのじゃないか。
 どうだろうか。これに対する異論はあるだろうか。外語大学でやっているのは語学のスキルを高めることだけじゃないよ,その国の歴史や文化,あるいは国際関係論まで視野に入れてるんだよ,そこはNHKの語学番組ではカバーできないだろうよ,と言われるだろうか。

● よろしい。そのとおりだとしよう。しかし,そういうものは書店と図書館でやれないか。山川出版社の「世界各国史」の中から該当する1冊を読むのと,外語大学でやっている対象国の歴史の講義を聴くのと,さてどちらが有益だろうか。いや,有益という言葉は不適当かもしれない。どちらにより実益があるだろうか。
 たぶん,考えるまでもないんじゃないだろうか。「世界各国史」はゆっくり読んでも3日もあれば読めるだろう。それでたぶん,大学の講義を聴いた学生のアベレージはやはり超えることになるだろう。他も同じだ。

● インターネットが普及するはるか以前にその状況はできていたのだ。ことは外国語に限るまい。
 まして,今はネットがあるのだ。大学の講義そのものがどんどんネットで公開されている。なんだったら,アメリカの大学の講義も聴ける。
 こうなると,大学の役割とは何なのかということになる。学士号を授与する権限があるということだ。しかし,今どき学士号などに何の意味があるのか。

● 大学に行くのは,よほど考えた方がいい。貴重な若いときの時間とお金をドブに捨てる結果になるかもしれないのだ。少なくとも,大学を卒業したことは何の箔にもならない時代にすでになっている。
 理工系はまだ存在意義を保っているかに見えるけれども,いわゆる文系学部は原則廃止してしまっていいのじゃないかと,かなり本気で思っている。そうされて困るのは,大学の禄を食んでいる教職員だけだろう。

● 年代を問わず,勉強するのはとても大事なことかもしれないのだが,その手段として大学を選択するというのは,それ自体が大衆性の発露でしかないような気がする。
 かつては大学に知が集中し,大学は知の殿堂であったかもしれない。が,今はそうではない。大学にあるものの多くはネットにもある。
 勉強は一人でできる。一人でできるものは一人でやった方がよい。しかし,多くの人は群れから離れることはしない(できない)だろう。大学はこれからも残っていくだろう(数は減るだろうが)。

● そもそも,大学は勉強をするところではなく友だちを作るところ,一生分のバカンスを前払いで取得するところ,社会に出る前に遊べるだけ遊ぶところ,という受けとめ方をされているかもしれない。
 そう割り切って大学に行くのは悪くない。勉強しようと思っていくのは感心しないけれども,遊ぶために行くというなら反対しない。そういう人たちに老爺心ながらアドバイスがある。

● 東京の大学に行くべきだ。もちろん自宅から通うのは不可。アパートを借りること。自宅から通っていたのでは,大学に行ったことにならない。
 それも多摩の山奥というか閑静なところにある大学じゃなくて,山手線の内側にある大学に限る。どこでもいい。遊びに行くんだから,偏差値を考えてたら逆におかしい。若いときの4年間を都心で過ごすのと,地方で過ごしてしまうのとでは,おそらく大きな差がつく。センスの鍛えられ方が違ってくるだろう。
 都内の大学の定員を抑制する動きがあるが,そんなのはものともせず,都心の大学に行くべきである。

2018年3月10日土曜日

2018.03.10 宇都宮スパ屋で飲むとすれば

● 今夜も宇都宮スパ屋へ。相方が500円と300円の割引券を持っていて,その使用期限が今月いっぱいなのだ。相方は割引券を使いたいらしい。
 ところがぼくはどうも,食欲がない。いやいや,食欲がないという言い方はあたらないな。直前に納豆汁をご飯にかけてかきこんでいたのだ。

● なので,今回は一番安いマルゲリータにサラダセット。安いマルゲリータが素敵に旨い。生ウニだの何だの高そうな食材が載ってるのよりずっと旨い(と思う)。イタリアンはトマトとチーズでいいんですなぁ。
 パスタはトマトとニンニクで味付けしてあるのが,一番旨いし,一番飽きない。これってイタリア人とは違う発想なんだろうかなぁ。

● もし,ここで飲むとすると,生ハムとマルゲリータを肴にして,キリキリに冷えた白ワインだな。待てよ,豚の香草焼きと,季節を問わずチーズフォンデュもありか。となると,ワインは白と赤の両方だ。
 といって,この店はひとりでは入りにくい。まして何品か味わうとなると4人はいた方がいい。面子を揃えるのが面倒だな。っていうか,揃わないんじゃないかな。やはり,ここで飲むのは現実的じゃないかもな。

● 何より,声をかける心当たりなんてないぞ。歳を取ると,たいていの人はそうかもしれないけどね。
 ぼくは若い頃からそうだった。自分から声をかけて飲みに行ったなんて,例外的な事象に属する。団体行動というか集団活動というか,そういうのを徹底的に苦手とするタイプだ。成功からは最も遠いタイプだね。
 だから,それをしなくてもすむようになる定年退職を心待ちにしていた。まだ,完全にその環境を手に入れたわけではないけれど,だいぶそれに近づいてはいる。

● ので,スパ屋でいろんなものを飲み食いするために,メンツを揃えようなんてのは,泳げないヤツが大雨の翌日に川の堤防に座って流れを眺めながら,あの流れに身を任せたら気持ちがいいだろうなぁと考えるようなものだな。

2018.03.10 東日本大震災

● 明日は3.11。ぼくの地元でもけっこうな被害があった。わが家も震災後数日間は,靴を履いたままじゃないと家の中に入れなかった。
 タンスと食器棚は一つ残らず倒れた。結局,すべて処分(多くは相方の嫁入り道具)。キャスターの付いた軽いプラスチック製のものに置き換えた。

● 書庫の本はすべて投げ出された。元に戻す気にもならず,放ってあるので,依然として足の踏み場もない状態になっている(ただし,だいぶ処分はできた。ある老人介護施設の職員数人が車で取りに来てくれて,かなりの量を持っていってくれた)。
 屋根はすべて葺き替えることになったが,その過程で悪徳業者とは言わないけれども,対業者関係で相当以上に不愉快な思いも味わった。

● が,津波の被害に遭われた人たちに比べれば,モノの数にも入らない。失われた命は億の金を積んでも戻ってこない。自宅が損壊したのは,数百万円で片がつく。金で片がつくものは,すなわちすべて安いのだ。
 その後,わが家でも「まさか」という出来事が起きてしまった。それに比べれば,大震災の被害など,日常の些事にすぎなかった。
 が,東北の人たちにしてみれば,大震災が「まさか」の中の「まさか」であったろう。そこが違う。

● というわけで,3.11だ。Twitterでも3.11絡みのツイートがドッと増えている。被災地に良かれと思って,いろんな人がいろんなことをやっている。頭が下がる。
 そのうえで申しあげるんだけれども,それらの多くに(つまり,すべてではない),どこかPR臭を感じてしまう。あるいは自己優越の顕示を感じてしまう。俺,忘れてないよ,ちゃんと考えてるんだよ,行動もしているよ,っていう。

● もし可能なら,静かにしてくれないか。黙ってやってくれないか。あなたはあなたの日常を生きればいいのだとまでは言わないけれど。
 いや,頭は下がるんですよ。自分がやれないことをやっているんだから。
 しかも,SNSの話なんだから,こちらが読まないようにすればいいだけなんですよ。そこはわかっているんだけれどもね。

2018年3月9日金曜日

2018.03.09 パソコンがやや不調

● 最近,パソコン(ThinkPad X61)の調子が少し変。クリックに反応しないことがあったり。なにせ2007年発売の古いやつだからね。ハードディスクは換装してあるんだが。中古で買って(17,000円だった)もう何年になるかな。充分に働いてくれた。
 動画の編集とか重い作業はしないので,10年前のパソコンでなんら不便を感じることはなかった。

● ちなみに申しあげれば,プリントアウトも一度もしたことがない。そもそもプリンターは持っていない(逆はしょっちゅう。したがって,スキャナは必須)。

● 後継機も決めていて,Chromebookにリプレイスされて出番がなくなっているWinのタブレットPCを使おうと思っている。キーボードは使いものにならないので,外付けのThinkPadキーボード(用意済み)をつなぐ。
 問題はSSDが32GBしかないこと。そこにMS-Officeまで入っているのだ。空きがあまりない。

● スキャナは富士通のScanSnap。付属のソフトを入れられるだけの空きがあるかどうか。
 普段使うのはブラウザとテキストエディタ(Windowsについてくる“メモ帳”で充分)のみだ。ので,何だったらMS-Officeなんか削除してもいいような気もするんだが。
 でも,Excelはないと困るかなぁ。Wordもときたま使うかなぁ。

● 今どきだとmicroSDカードにも256GBのがあるんだから,それにシステムを移し替えられればいいんだが。
 詳しい人ならたぶんできるんだろうけど,少し(というか,かなり)遅くなりますかね。

2018.03.09 夕食は百均寿司

● 百均寿司店で夕食。氏家の「魚べい」。
 ぼくら大衆にとって,安さは正義。逆に,安さは正義と思ってしまう人を大衆と呼ぶのかもしれないけど。
 ぼく的には百円でこれだけのものが食べられれば,文句なし。抹茶は飲み放題で,ガリは食い放題。ありがたや。

● 行ったのは7時を少し過ぎた頃だった。30分も待たされたろうか。最も混む時間帯だったのだろう。ぼくらがカウンター席に座ったあとも,次から次へお客様がご来店。
 商売繁盛,けっこうなことだ。こう言っちゃなんだけど,商売は貧乏人を相手にするに限るのだな。サッサと喰ってサッサと帰ってもらえれば,ほんと助かる。

● とは言うものの,この料金だと,薄利多売しかない。その多売も相当な水準に達していないと,利益を確保するのは大変だろう。楽な商売はないなぁ。
 もったいないなぁと思ったのは,お客が帰ったあとの片付けがなかなかされなくて,しばらく放置してある一画があったこと。お客が去ったあとに,食後の皿がそのままになっている光景というのは,飲食店とすれば最も見せたくないものだろう。回転率を下げる要因にもなる。
 最小限の人数でやっているのだから,混雑時間帯にはどうしてもこれが出てしまうのだろう。

● タッチパネルを使っての注文は,「魚べい」が初めてではないけれども,画期的なシステムだ。従来は店員がやっていたことをお客にやってもらえる。しかも,お客の負担を増やさずに。
 計算まで自動的にやってくれる。スタッフがお皿の数を色別に数えなくてもいいのだ。

● もうひとつは,お客が無言でいられるようにしたこと。声を出して注文するのは億劫だと思っていた人が,意外に多かったに違いないのだ。なぜって,ぼくがそうだったから。
 注文が通らないこともあるし,あまり忙しそうにしていられると,注文しづらい。無言ですむというのは,けっこうなサービスになっている(と思う)。

● 老爺心から申しあげれば,タッチパネルにある“店員を呼ぶ”ボタンは削除した方がよい。こういうものがあると,大した用もないのに店員を呼ぶバカを作ってしまうからだ。店員をバカから守らなければいけない。お客は神様ではないのだから。
 実際には,お客がこのボタンを押すのは,注文したのになかなか商品が来ない(逆に,注文してないのが届いた)という場合が大半だと思う。そういうことのないようにするのが,最も簡便な方法だ。
 このボタンは要らない。逆にいうと,このボタンに頼らない方がいい。

● 百均寿司でも特別枠で高いネタもある。が,そうしたものは注文しないのが基本。
 それをすると,回転寿司の良さから少しそれてしまうことになるのだ。つまり,そういうものは回らない鮨屋で食べた方がいいと思うから。

2018.03.09 イチローがマリナーズに復帰

● 右は3月7日の下野新聞。イチローがメジャー契約でマリナーズに復帰することを報じている。
 年俸はメジャー最少額。すでに,お金のために野球をする必要はない程度には稼いでいるから,そこは問題じゃない。

● どういう使われ方をするのだろう。が,どういう使われ方であろうと,結果を出すのがイチローの真骨頂。
 マリナーズ側の事情が天佑になったとしても,50歳現役というもうひとつのイチローレジェンドに向けて,ともかく発進であるぞ。が,いかにイチローといえど,今年がメジャー最後の年になるかもしれないと思って,プレーするんだろうな。

● 左は今日(3月9日)の朝日新聞。マリナーズへの復帰が決まったイチローのインタビュー記事。
 メジャーの平均年俸は4億3千万円だという。これじゃ有力な日本人選手がメジャーに流れるのは当然だね。日本とはまるで違うんだもんね。

● イチローにとっても正念場の年になるんでしょうね。たださ,先発で使ってくれれば,4億円や5億円のメジャーリーガー以上の働きをまだまだするんじゃないかと思えるんだけどねぇ。走攻守ともイチローを超えるメジャーリーガーはまだ少ないのじゃないか。変則的な使い方さえやめてくれれば。
 ということで,ぼくとしては期待を込めて,今シーズンのイチローを追いかけたい。皆さんも同じでしょ。

● イチローほど自分の身体に関してメタ認知を研ぎ澄ませている選手はそうそういないだろう。であっても,そのイチローにしても感知しきれない身体の衰えはあるのかもしれない。
 50歳で現役を達成できるかどうか。仮にイチローができなかったとなると,その可能性を感じさせるプロ野球選手は当分出てこないだろうけどねぇ。

2018年3月8日木曜日

2018.03.08 グルメはたまにでいいのだ

● TwitterやFBにはグルメ投稿がけっこうあって,美味しいお刺身で日本酒をいただきました,なんてのを見るといいなぁと思う。
 こちとら,外で酒を飲むなんてほとんど絶無になった。相方と東京に出たときにホテルで飲むくらい。年に数回の話だ。

● 普段は相方がチャチャッと作ったもの(右の写真のような)を肴に,安ウィスキーを炭酸で割って飲んでいる。それで格別不満がないのも事実で,家飲みは気楽でいいなぁと思っている。
 総じていうと,美食というのは人間の天然に反するような気がする。そこはそれ,育ちの悪さがそう思わせるのかもしれないけれども,ヒトにとっての食事は給餌でいいのだとどこかで思っている。

● 食文化というカテゴリーを認めるにやぶさかではないけれど,文化はたまに接するくらいでちょうどいいのだ。
 常時,文化とともにいて,時々,自分が文化の上に出てしまうなんてのは,けっこうイビツであるかもしれない。

● FBにはグルメのコミュニティもあって,最近,時々覗くようになった。どんだけ暇なんだ?
 言っちゃ悪いんだけど,ここには食文化云々といえるような投稿はほぼない。幼児が玩具自慢をしているようなものだ。いくらぼくでも,この手のサイトにはすぐに飽きるだろう。

● とは言いながら,旨い刺身で一献傾けたくなってきた。
 それは特別なハレの場になるわけだから,隣に妙齢の美女がいて接待してくれる必要はないけれど,よく吟味された材料に洗練を極める包丁を入れて仕上げた一品であってもらいたい。酒の保存にも入念なる注意を要求したい。言うまでもないが,それ相応のお金を払う用意はある。
 だからこそ,滅多には行けないのであるよ。

● 上のような考え方は,ハレとケを峻別して,両者の差をできるだけ大きくしようとする発想だ。中間を認めないというかね。
 対して,中間こそ大切だとする考え方もあるだろう。一回の食事にン万円もかけることはないでしょ,かといって普段の食事が餌でいいってこともないでしょ,普段からちゃんとしたものを食べていれば,ハレなんか求める必要もないんじゃない? という考え方。

● 充分に成立すると思う。今では死語になったかもしれないけれども,いわゆる中流と呼ばれる人たちが採用しているスタイルは主にはそれではないかと思う。
 ハレとケを峻別するのは,ひょっとしたら下層人のものなのかも。とすると,ぼくは永遠の下層なんだな。しかも,滅多にハレなんか来ないわけだから,餌を喰い続けて死ぬ運命なのだよ。

2018年3月7日水曜日

2018.03.07 FBの面白さ

● FBの面白さが少し見えてきた。FBについては,ぼくの評価はわりと消極的なもので,いずれはやめるんだろうなと思っていた。
 FBはリアルを補完するものだと思っていたのだ。リアルで知り合いじゃない人とFBでつながっても仕方がない,それが基本だろう,と。

● 頑なにそう思っていたわけでもなく,実際には早期の段階から,リアルでは会ったことのないFB上の「友だち」がいた。が,基本はリアルを補完するもので,したがってFBの世界は閉じたものだと考えてきた。
 自分の投稿は「友だち」のタイムラインにしか表示されないわけだから,どうしたって閉じた世界だなと意識することになる。

● けれども,リアルの世界ではまず知り合う機会のない人たちとも,FBでは知り合えるのだった。何を今さらということですな。
 で,そこがFBの面白さなのだと思う。自分の世界にはいなかった人。自分の友だちの世界にもいなかった人。そういう人とFBでは知り合えて,メッセージを交換することができるのだ。

● 大事なことは,“公開”にして投稿しているなら,「友だち」以外のFBユーザーが読んでいるかもしれないことを忘れないことだ。
 どういう理由で自分の投稿に辿りつくかはわからなくても,そういう人がいるかもしれないのだ。事実上のフォロアーが隠れているかもしれない。そういう前提で投稿を続けることだと思う。

● どういう人と自分は「友だち」になりたいのか。それを事前に考えてもムダだ。実際に出会ってみて初めて,その人と友だちになりたいと思うものだからだ。
 リアルでもFBでもそれは同じ。出会ってみなければわからないのだ。だから,自分のタイプを事前に決めてしまって,それに合わない人は排除していくなどという,ティーンエイジャーの女子がやりそうなことをやってはいけない。そこはオープンでいる方がいい。

● ただし,こういう人とは「友だち」になりたくないというのは,事前に決めておくことができる。ぼくの場合だと
 地方議会の議員や首長,その他政治を業としている人
 「友だち」の数が無闇に多い人
 同じ職場の人(FBでは仕事の話はしないことにしているので)
 マスコミ関係の人(ただし,これはかなりの範囲で例外を認めてよい)
 何年も投稿していない人,他人の投稿に“いいね”やコメントを付けるだけの人

● というわけだから,リアルな知り合いとしか「友だち」にならないと頑なに決めてしまっては,FBの良さは活かせないかもしれない。
 かといって,どんどん友だち申請をして「友だち」をあまりに増やしてしまうと,FB疲れの現象に見舞われるのではないか。時間もエネルギーも有限なのだから,FB上の交友も有限になる。だいたい,FBばかりやっているわけにはいかない。

● ごくサックリいうと,普通の一般人なら,「友だち」は50人程度が適当なのではないか。いずれもがアクティブ・ユーザーだとした場合だ。もっとも,あるラインに達すると,加速度的に「友だち」が増えてしまう段階はあるだろうけど。
 一番いけないのは,「友だち」を増やしたいあまりに誰かれかまわず「友だち」になってしまうことだ。質を担保する努力を怠らないことだ。質は,彼(彼女)のタイムラインを見ればおおよそわかるだろう。

● FBのスタート時点ではリアルの知り合いのFBユーザーを見つけて,そこから「友だち」を作っていくしかないだろうが,それでもリアルの知り合いを網羅するなどということは考えない方がよいと思う。
 リアルと同じで,FBの交友関係も変化するのが普通のはず。リアルだと疎遠になったり,場合によっては絶交するなどということも起こるのだが,FBにそれはない。フォローを外して彼(彼女)の投稿が自分のタイムラインに流れないようにするだけだ。
 結果的に,FBの交友関係の変化は,「友だち」の数が単純に増加するという形で現れるだろう。

● が,例外はある。申請を受けて「友だち」になった人を数ヶ月後に「友だち」から削除したことがある。フォローを外すだけでは我慢できなかったのだ。
 けっこうな歳のジジイだったが,たまにどうでもいいことを発信する。じつにどうでもいいことだ。もちろん,本人はそれをどうでもいいこととは思っていないのだろう。
 他人の投稿は読んでいる気配がない。皆の衆,ワシの言うことを聞け,みたいな。
 FBに落ちているゴミだと思った。ので,遠慮なく削除。そこを事前に見抜けなかったのは迂闊といえば迂闊。

● 友だち申請をブロックしたことももちろんある。出会い系のFB版とおぼしき女性からの申請だったり,外国人からの申請だったり。
 なにせぼくは出会い系を楽しむ趣味もお金も体力もないのだし,日本語しか読めないのだ。
 で,ぼくの「友だち」の中にも,そういう女性を「友だち」にしている人がいて,何だかなぁと思ってしまう。実害がないので放ってあるんだろうけどね。

2018年3月5日月曜日

2018.03.05 栃木県出身のプロ棋士(将棋)が誕生

● 右は今日の下野新聞。栃木県出身のプロ棋士が誕生した。やっほいほい。
 23歳でプロ棋士に。大学に通っていたということは,たとえプロ棋士になれなくても喰っていけるように備えていたということだろう。

● 退路を断つべきだという人もいるかもしれないが,ぼくはこれでいいと思う。備えておくべきなのだ。ヘタすりゃ26歳で人生を終えてしまうことになりかねないのだから。
 奨励会に入れるだけで天才だ。その天才たちがしのぎを削って,プロ棋士(四段)になる。三段リーグは年2シーズン。プロになれるのは年に4人だけだ。これで退路を断てというのは,酷に過ぎる。

● かつて桐山隆さんも挑戦して跳ね返されたのだ(彼は1997年にアマ名人になっている)。プロ棋士になるには,とんでもない高い壁があるのだ。
 米長永世棋聖が言ったとされる「兄貴3人は頭が悪いから東大に行った。私は頭がいいから将棋指しになった」というのは,大衆受けするだけでなく(といって,東大にも入れないような頭の悪さの持ち主はどうしたらいいのか),どこかに一片の真理を含むように思われる。

● ところで。ぼくはこんな妄想をしている。
 来期,谷川九段がA級に復帰して,米長永世棋聖の記録を破って,最年長で名人に復位する。そこに最短でA級に駆けあがってきた藤井八段が挑戦する。
 でもって,谷川の記録を破って史上最年少で名人になる。そうなったら,いくつものドラマが生まれるんだがなぁ。
 もちろん,谷川が藤井を阻止しても,そこはそれ,やはりひとつのドラマが生まれる。そうならないかなぁ。ぼく,谷川九段のファンなので。


(追記)

3月7日に同じ下野新聞に長谷部さんのインタビュー記事が掲載された。
 これまでもずいぶん頑張って来たんだろうけども,ここで気を抜くわけにはいかないだろうなぁ。
 藤井六段の話が出ている。将棋に限らず音楽の演奏家など,その道で個で戦ってきた人は,自他の才能の違いはリアルにわかるものだろう。「苦笑い」するしかないんだろうな。相手は何十年に一人しか出ない天才だもんな。

2018年3月4日日曜日

2018.03.04 週末をシェラトン都ホテルで 2

● 昨夜は25時を過ぎるまで起きていた。カーテンの遮光効果が万全なせいか,起きたのは8時。7時間も寝てりゃ充分のはずだが,いつもの起床時刻は6時で,6時には半分目が醒めた状態で,2時間ほどはウツラウツラしていたのだろう。まるで頭がハッキリしない。
 それと,どういうわけだろう,腰が痛い。このホテルのベッドは完璧なはずで,つまり寝具のせいではない。どうしたわけだろう。

● ホテル内の「四川」で朝食。昨夜は380円の立食いそばで夕食をすませている。ガッツリ喰ってやろうと思う。
 ぼくはここでは和食にする。メニューはバイキングだからそうそう頻繁には変わらない。ここの味噌汁は外せない。塩分なんか気にしないで,飲みたいだけ飲んでおくべし。
 ひよこ豆と鶏肉のカレーも独特。お子様メニューかと思ってたんだけど,イスラム系の人たちに向けたものかもしれない。

● 今までなかったのが(あったのに気づかなかった可能性が高い),その場でオムレツを焼いて供してくれるサービス。たいていのホテルではやってるっちゃやっている。
 全部入りのオムレツを焼いてもらった。上に載っているのは海苔。そこにオリーブオイル。

● ここはわが家の食堂なのだと思ってみる。相方と二人で使うには少々広すぎるので,お客さんを招待してみたよ,と。シェフやスタッフもデリバリーサービスを使ってみたよ,と。
 すこぶるリッチな気分に・・・・・・と思いきや,そもそもそんなふうには思えないのだった。

● ホテルの庭園(というか山の斜面)を歩くのは,食後の楽しみ。さすがはホテルで手
入れが行き届いている。作業中の人に逢うことがある。年配の男性だ。いい仕事のように思えて,少し羨ましく思ったりもする。
 庭園には仏像もいくつかある。一番惹かれるのは文殊菩薩像なんだが,ぼくに仏像の何がわかるわけでもない。

● 相方は風呂を中心に,部屋ステイ(?)を楽しんでいる。ぼくは部屋にいるのが苦手で,ロビーをフラフラしている。つまり,一番安い部屋でいいタイプなのだ。
 ではあっても,スイートは快適だ。ほんと,スイートならホテルに住める。月に150万円もあればい
い。東京にはそれ以上に高い家賃のマンションもあるだろう。
 首都圏でも空き家問題は発生しているらしい。調子こいて湾岸タワマンなんぞを追いかけてると,エライ目に遇うかもしれんぞ。ホテルに住みなさい。

● ラウンジでお茶。あと1時間と少々でチェックアウトしないといけない。安楽はすぐに去っていく。最後に部屋の風呂に入浴剤を入れて浸かってみた。
 こういうお金を払って享受する受身の安楽は,いくら貪っても,どこかにつまらなさが残るのも事実なのだが。