● もちろん,生身をネットに持っていくことなどできるはずがない。自分をネットに移すというのは,レトリック的な言い方だ。
● 自分をネットに移そうと思ってブログを始めたわけではない。ブログを書きだしてだいぶ経ってから,自分をネットに移すことを考えるようになった。
極限まで大げさに言えば,自分をネットに移すことに成功すれば,永遠の寿命を得ることにならないか。生身の自分が死んだあとも,ネットの中に存在し続けるんだから。
● ぼくに小説を書く才能があったとする。小説を書いてそれがロングセラーになって,後世の人にも読み継がれる。とすれば,自分の分身を後世に残せたことになるといっていいだろうか。そうした才能の持ち主が羨ましいと思えるのはそこのところだ。
100年近く前の映画を見る。もうこの世にはいないはずの俳優たちが,若い肢体を躍動させている。彼ら彼女らは映像化という技術によって不老不死を得たといっていいだろうか。
● ほとんどの人は平々凡々で,死んだらそれで終わる。彼を知っている人(たとえば妻や子や友人)もいずれ死に絶えて,そうなれば彼がこの世にいたことすら,知る人は誰もいなくなる。完全なる無に帰する。
潔い。それでいいのだろう。あるいは,そうあるべきなのかもしれない。
● しかし,幸か不幸か(っていうのも斜にかまえた言い方だな。幸に決まっている)今はネットというものがある。ネット上に自分の痕跡を残すことができる。
やりようによっては,自分のかなりの部分をネットに移すことができるのではないか。
● 今だってあまり読まれていないブログだ。書き手が亡くなったあとなんて,誰も読まなくなることは必定だ。
誰にも読まれることのないブログはたとえネットのどこかに存在していたとしても,それは存在していると言えるだろうか。
まぁ,そうした根源的な問題はあるわけだけれども,そこはあまり考えないことにして,とにかく自分をネットに移植しようじゃないか。
● そのためにせっせとブログを書いてきたんだけど,これはいくらやっても自分を移すことにはならないな。
万のブログを書いて,ネットにあげようとも,ブログだけでは自分の頭の一部,建前だけしか移せない。
● Twitterでどうでもいい些事をアップすることで,自分をネットに移すことの次元がひとつあがったような気がする。自分の生活の息づかいのようなものまで移すことができる感じだ。
で,その感じというのは,けっこうな快感を伴うものだ。Twitterで頻繁につぶやいている人がたくさんいる。それは,この快感あってのことではないかと思う。
● 同時に,自分は徹頭徹尾たいした存在ではないことがわかるわけだけれども,そんなのは端からわかりきっていたことで,見える化されて驚く話ではない。
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