2016年1月31日日曜日

2016.01.30 宇都宮のカプセルホテル

● 東京を出るのが少し遅かった。宇都宮までは戻れるんだけど,宇都宮から北に向かう最終電車には間に合わない。
 こういうとき,どうするか。タクシーで帰る? ダメ,高すぎて。それだったら,東京から新幹線で帰ったほうがいい。そのほうが安い。新幹線を使えば,余裕で最終に間に合ったはずだ。

● 歩いて帰る? そういうことも昔は何度かやった。酔っ払って4号の歩道を歩いて帰る。家に着く頃には,新聞販売店が稼働を始めている。何やってんだ,オレはと,少し人生の敗残者の気分を味わう。

● そういうのも悪くはない。悪くはないけれども,寄る年波ということもある。最近は,もっぱら宇都宮のカプセルホテルを利用している。
 東京だとカプセルであっても予約がないと泊まれないことが普通にあるようだけど,宇都宮はさすがにそういうことにはなっていなくて,ウォークインで断られたことはない。
 カプセルなんだから,ウォークインでもボラれることはない。

● 寝るだけならカプセルで充分だ。最終に乗れなくて泊まるんだから,実際,寝る以外のことはできないのだ。

● 大浴場がある。お湯はもちろん循環で,もうだいぶ循環させているのだろうなと思われるお湯ではある。
 が,洗い場のお湯はそうではないし,この時期でもしっかり身体を洗えるのはありがたい。家のお風呂だと寒くてね。そそくさと洗ってしまうわけでね。

2016.01.30 錦糸町の中華居酒屋

● 錦糸町駅からほど近いところに中華居酒屋があった。夕刻,雑居ビルの2階にあるその居酒屋に入ってみた。
 入った理由は,安そうだったから。このあたりがぼくのダメなところかもしれないんだけどね。安さを価値の第一順位にしてしまうってところ。

● まぁ,いいや。お客さんは誰もいなかった。一瞬,引き返そうかと思った。まだ営業してないのかな,と。
 店員が出てきてくれた。店員さんも中華だった。何人かいるんだけど,全員が中華さんのようだった。
 東京ってそうだよね。吉野家やラーメンのチェーン店なんかもほとんどそうだ。日本人を使ってしまうと採算が取れなくなるのか。あるいは,日本人を使いたくても応募してくれないんだろうか。

● ハイボールが190円。料理も3品で980円。レバニラ炒め,ホルモン炒め,海老とブロッコリーの炒めあんかけ,の3品を注文。
 これで980円は安いな。味? 普通に旨い。こうしてみると,自分はレバーとかホルモンとかモツとかが好きなのだなとわかる。

● だんだんお客さんも増えてきた。お客さんが増えてくると居心地はよくなる。居酒屋はそうだよね。お客さんが少ないほうがいいのは,ひとつは図書館,もうひとつは昔ながらの喫茶店くらいか。

● ハイボールお代わり。このウィスキーは何を使っているんだろ。トリスよりも安い酒だな。
 でもさ,ぼくは自他共に認める味オンチでね。ウィスキー色が付いてればいいってところがあってさ。だからこそ,安さ第一主義になってしまうのかもしれないんだな。

● さて,次がある。勘定にするか。190円のハイボールが2杯,料理が980円。しめて,1,360円か。
 と思ったら,2,000円を少し超える額を請求された。お通しがでたから,テーブルチャージがあったのか。そうだとしても,本体に比して帽子が高すぎるな。

● こうしていい気持ちになって思うのは,東京って面白いなぁってことだ。銀座のような街もあれば,渋谷のようなところもあって,ここ錦糸町のような街がある。
 それぞれ,全然違う街だよね。どんな人にでも居場所があるんだろうな。ぼく,錦糸町と相性がいいかもしれない。あと,新橋。要するに,お金がなくてもそれなりに楽しめる街。

2016.01.30 東京駅の総武線ホーム

● 川崎から錦糸町に出た。普通に東京駅で乗り換えた。
 総武線の地下ホームに行くのにかなり歩きますよね。あるいは,何度もエスカレーターに乗る。したがって,時間もかかる。

● ひょっとして,中央線でお茶の水まで行ってしまって,お茶の水で黄色い電車に乗り換えたほうが早いんですか。
 乗り慣れてる皆さんは,どうなさっているんだろう。

● 京葉線は他に代替がないから仕方がない。けれども,総武線はお茶の水か秋葉原で乗り換えてもいいわけなので,もう少し楽に乗り換えることはできないのかなぁと思った次第。

2016.01.28 サイゼリヤ,二度目

● 平日,昼のサイゼリヤに入ってみた。児童・生徒は当然いない。
 二人連れのサラリーマン。食事が終わると,二人ともパソコン(レッツノート)を広げて作業を始めた。

● 30~40代と思われる女性が一人で来ている例が多い。仕事着ではない。これは何なのか。こちらは,例外なくスマホを見ている。
 食事はついでのように思われる。スマホを見ながらピザやパスタを口に運んでいる。

● ここがサイゼリヤ(に限らず,たいていのファミレス)の悲しいところだ。ここに食事を楽しむために来る人はいないか,いたとしてもごく少ないのだろう。
 その代わり,安価を極めているわけでね。

● しかし,お喋りの媒介をすることはできる。ササッと食べてもらって,仕事の場を提供することもできる。サイゼリヤとしてはそれで良しとしている,そういうポジションを狙っているんだろうな。

● 今回は赤ワイン。500mlのデキャンタで399円。ソーセージともう一品。こちらも,それぞれ399円。1,200円で充分飲める。腹もくちくなる。
 安居酒屋として使うには,サイゼリヤは絶好だ。料理はセントラルキッチン方式で,店舗ではレンジでチンかもしれない。ワインも百均で売っているようなワインなのかもしれない。

● であっても,店飲みをこの料金で提供してくれるのはすっごくありがたい。平日のサイゼリヤはなかなかいい。

2016年1月28日木曜日

2016.01.26 人の背中をそっと押せる人

● 「ほぼ日」を主宰している糸井重里さんがしばしば言っているのが,「人をあたためる」仕事をしたいということ。
 コボリジュンコさんも「世の中をご機嫌な人だらけにしたい」というミッションを掲げている。

● 願わくば,自分もそういう人でありたい。そっと誰かの背中を押してあげられる人でありたい。いや,押すのではなく,なでるくらいが適当か。
 音楽(コンサート)を聴いてそれをブログにしているけれども,モットーは「けなさない,比べない,無理にほめない」だ。中でも「けなさない」ことを心がけている。
 それは,自分にけなせるほどの鑑賞能力があるかどうか疑問なためだけれども,けなすことからは何も生まれないからだ。

● ステージにいる人たちは,誰もが自分にはできないことをやっている人たちだ。できれば,ぼくのブログを読んで少しいい気分になってもらいたい。ぼくにできるのは,その程度のことだ。
 少しだけいい気分になってもらうこと。そのためには嘘や心にもないことを書いてはいけない。そんなのは瞬時に伝わってしまう。

● ともかく。鋭く人を突くことからは遠くありたい。人を突くのに,知性も寛容も必要ない。
 だから,それをしそうになったら,すっとその場を離れることができるようでありたい。

● 問題は,ブログでしか関わらない遠い人たちにはそれができても,身近な家族,友人にはなかなかできないことだ。
 特に家族。突いてしまうことがあった。しかも,何度も。しつこく。そんなことからは何も生まれないとわかっているのに。

2016年1月27日水曜日

2016.01.25 日本3大ピカレスク・ロマン

● ピカレスク・ロマンとは,16~17世紀のスペインを中心に流行した小説の形式だと説明されますね。悪漢小説とも呼ばれる。
 以下にご紹介しようと思うのは,厳密にいうとこの形式から逸脱するものかもしれないけれども,そのへんはあまり厳密には考えないことにしよう。

● 日本の風土はピカレスク・ロマンとの相性があまり良くないようだ。そうした小説が何かの文学賞を受けたということはまずない。軽視されがちだ。そもそもそうした小説はそんなに多くないように思う。
 しかし,そんなことはどうでもいい。どうせ読むなら面白い小説を読みたいと思うだけだ。

● 私的に日本の3大悪漢小説として推奨したいのがある。次の3つだ。
 吉川英治『三国志』
 阿佐田哲也『麻雀放浪記』
 ゲッツ板谷『ワルボロ』

● まず,吉川英治『三国志』。『三国志』が悪漢小説なのか。そうだと言っておく。
 この小説に登場する人物たちは,曹操にしても劉備にしても,元々はどこの馬の骨かわからないわけでね。劉備が漢王朝の末裔だというのは,たぶん劉備自身のでっち上げだろうし。
 そういう人物たちが次から次に登場して,天下狙いの陣取りゲームに興じていく。諸葛孔明も一枚かんで,“秋風吹く五丈原”のドラマもある。縦糸の大小のうねり,横糸のめまぐるしいエピソード。
 文庫(講談社)で全8巻。スラスラと読めるだろう。

● この分野ではほとんど古典かもしれない。今でも売れているようだ。
 遠藤周作にしろ吉行淳之介にしろ,本人が亡くなったあとは文庫も絶版になることが珍しくない。残るのはこういう悪漢小説なのかもしれないね。

● 『麻雀放浪記』は角川文庫で全4巻。だいぶ昔だけど,和田誠さんが監督して映画にしている。主人公の“坊や哲”は真田広之が演じた。事実上の主役といえる“ドサ健”は鹿賀丈史。
 映画も面白かったんだけど,全4巻をそっくり映像にするのは不可能だ。
 やはり原作を読んでもらいたい。麻雀のルールなんか知らなくても充分に楽しめる。
 同じ絵柄の牌を3つ連番で4セット揃えるか,同じ牌を3つ集めて同じく4セット揃えるか,その混合か,この3パターンで上がれるのだと知っておけばいい。それに2枚1組の雀頭を加えて上がりとなるわけだけどね。
 あと,コクシムソウだのサンショクだのイッツウだのいろんな役があるんだけど,そんなのは知らなくてOKだ。
 血湧き肉躍る。こういう活字の世界があったのかと思うだろう。

● でね。長らくこの2つだけだったんですよ。日本語で読めるピカレスク・ロマンはね(翻訳ものは当然,除く)。
 ところが平成になってから,ぼくらはゲッツ板谷を得ることになる。西原理恵子つながりで知っている人が多いかもしれない。エッセイを読んだっていう人もいるかも。
 現在のところ『ワルボロ』『メタボロ』『ズタボロ』の3巻が出ている(いずれも幻冬舎で文庫になっている)。このあと最後の『ボロボロ』が出るはずなんだけど,まだ刊行されていない。ごく近い将来に出るんじゃないかと思いますけどね。

● ピカレスクロマンは青春小説的な部分を内包することが多いように思う。この小説はその青春小説的な色彩もたっぷりある。何といっても,主人公が中学3年生から高校を卒業するまでの時期なんだからね(『ボロボロ』は卒業後の話になる)。
 登場人物たちは悪で純という,愛すべきキャラクターたちばかりだ。実際にこういうのにそばにいられたら,ヤッテランナイだろうけどさ。

● トルストイもいいしドストエフスキーもいいんだろうけど,退屈じゃない? ああいうの。あそこまでの長編は大人になってからでは読めないから学生時代に読んでおけよ,っていうのはまさしく正解なんだけれども,じつはぼくは読んだことがない。それで残念感もあまりないね。
 上にあげた3つも読まなくたって命に別状はないわけだし,他に読むべきものがいっぱいありますよ,と言われるかもしれない。
 まったくそのとおり。でも,そこを曲げて読んでみてくれないかな。面白さは保証するよ。保証どおりじゃなかったと言われても,損害賠償には応じられないけどね。

2016.01.24 サイゼリヤに初めて入った

● 宇都宮のララスクエアの地階にサイゼリヤが入っている。こういう店はどう使うのがいいのか。とりあえず,一人で入ってみた。

● 職場の同僚に,あそこ(サイゼリヤ)は100円でひと晩過ごせるところだという人がいる。ワインが1杯100円。それでひと晩過ごせる,と。
 ま,それは極端としても,ポテトフライをつまみに注文しても,しめて299円で世を明かすことができる(いや,これに深夜特別料金が加わるわけだけど)。同じことを考えて実行している輩がけっこういるらしい。
 ひょっとすると,同僚の使い方がすなわち賢い使い方になるのかもしれない。とはいえ,早々夜を明かす機会はないだろう。

● 別の同僚の義理の父親もサイゼリヤの安いワインが好きで(ワインが好きなのじゃなくて,安いのが好きなのだろうと思われる),よく行くらしい。もう70歳にはなっているだろうけど。
 うむ,安酒場として使うっていう使い方もあるのか。

● で,入ってみたところの印象をざっくり申しあげれば,安く空腹を満たすにはいいところだと思えた。イタリアンの吉野家のようなものか。いや,吉野家より安いか。
 加えて,吉野家は食べるだけのところだけれども,サイゼリヤはしゃべりの場としての機能をお客に提供している。

● ワイン(250㎖),トマトとチーズのサラダ,ピザ(マルゲリータ)で1,068円。もう少し足せば,宇都宮スパ屋の平日ランチが食べられる。
 コストパフォーマンスを考えれば,宇都宮スパ屋の一択だ。

● 日曜日の昼食時だったせいか,お客さんも児童生徒が多かった。子どもたちだけで来ている。彼ら彼女らにとっては,思いでとして記憶に残る場所になるのかもしれない。
 だとすれば,ぼくなんかが迂闊に踏みこんで荒らしてはいけないかな。

2016年1月26日火曜日

2016.01.23 週刊文春1月28日号のSMAP騒動記事

● 週刊文春の報道態度や手法については色々言われているようだ。実際,この号における中居君の追いかけようは,中居君が芸能人じゃなければ明らかに犯罪の範疇かもしれない。
 が,ここまでやるのはやる方もたいへんだろう。文春の社員がやっているのか,下請けに出しているのかは知らないけれど,ゴシップを求めての報道ならば,ここまでやるのはまぁわからんでもない。

● やられる方は,たまったものではないだろうけど。こういうのを有名税というのか。有名税ってのも,何だか勝手な命名ではある。
 基本的に,パンピーはこういうのに冷淡だよね。ぼくもそうなんだけどもね。

● 内容の当否についてはもちろんわからない。それがわかるくらいなら,最初からこういう記事を読んだりしない。

● 副社長のメリー喜多川氏の後継者についての考え方は,率直すぎるという誹りを免れないかもしれない。でも,いるな,こういう人。中小企業の経営者にはわりと多いんじゃないか。
 大企業を目指すならここから脱皮できるかどうかが非常に大事なんだろうけど,芸能事務所はそういう成長過程には馴染まないのかも。

● SMAPのメンバーに,ジャニーズ事務所の待遇(たとえばギャラ)について不満があるということはなかったらしい。だから,木村君は一貫して事務所に残留する意向だった。
 あとの4人が独立に動いたのは,育ての親,直属の上司についていこうとしたからだ。ただなぁ,こういう整理は単純すぎて面白くないんだよな。

● 中居君の通帳を覗いた人がいて,その人によると,ゼロが10桁の数字が刻印されていたらしい。ゼロが10個? 100億円だ。
 驚くにはあたらない。彼らならその程度の金融資産を持っていなくてどうする。ジャニーズ事務所はそれなりに正統な処遇をもって彼らに報いていたのはたしからしい。
 妙な美学(?)に踊らされないで,きちんと将来に備えておけよ,と思う。

2016.01.23 温泉だけではない「道の駅きつれがわ」

● さて,その「道の駅きつれがわ」なんだけど,この道の駅の大きな特徴は温泉だ。本格温泉を備えている。
 が,それだけではない。

● まず,福味食堂の蕎麦。旨い。ここは定食がメインのお店らしいんだけど,ぼくはだいたい蕎麦にしている。だいたいといっても,まだ食べたのは3回くらいのものなんだけどね。
 本格的な蕎麦だ(と思う)。しっかり冷たくしているし,歯ごたえもシャッキリ。旨い蕎麦を喰いたいと思ったら,とりあえずここに来ればいいかなと思う。

● おでんや鯛焼きを商う店もある。ずっと看板娘を務めている可愛らしい娘さんがいらっしゃる。ありていに申せば,美人は少ないものでしょ。であればこそ,こういう娘さんは貴重だね。
 あまりジロジロ見ては失礼だと思うので,チラッと見ることにしている。

● 小さい子どもを伴った家族連れが多い。3世代で来ているね。老人だけのグループも多い。若い人たちもいるけれども,数は少ないようだ。
 現在の日本の人口状況をそのまま反映していますかね。ではないか。若い人たちはこういうところには来ないか。

● こうした場所での定番だけれども,農産物の直売所がある。これも何気にありがたいものでしょ。わが家でも直売所,けっこう行くね。
 新鮮さと生産者がわかっていることは,価格に代えられない。といって,スーパーに比べてそんなに高いわけじゃない。

2016.01.23 ひっさしぶりの日帰り温泉

● 「道の駅きつれがわ」の日帰り温泉に入った。18日以降,それまでの暖冬はどこに行ったのかと思うような寒さが続いている。
 寒いときの温泉,じつにどうも天国だ。

● 入浴料は500円。500円で買える天国体験。庶民の娯楽の王様だと思うけれど,じつは日帰り温泉に来たのはじつにもって久しぶりだ。確実に1年は空いている。2年近く空いているかもしれない。
 ムスコと二人で行ったのは,いつだったか。それ以来になる。そのムスコは目下入院していて,それ以前からとても二人で出かけられるような状況じゃなかった。

● その昔,もっと切羽詰まった気持ちで,この温泉に浸かりに来ていた時期があった。束の間の安寧というか,癒やしというか,平穏というか,それを求めて来てた。
 そうすることで,ギリギリ気持ちのバランスを保とうとしていた。結果,保つことに成功した。

● その技法はほかにもうひとつあった。ある道を散歩することだった。やはり休日に車でそこに行き,すがるような気持ちで歩いたものだった。
 こういう振り返りは,少々,自分をヒロイックにしてしまうものかもしれないけど。

● 出勤前に強い酒を入れて気持ちを麻痺させなければならなかった時期も2年近くあった。そういうあまり望ましくないれやこれやと併用しての温泉や散歩だったけれども,ただ,その過程で家族(ヨメとムスコ)にあたってしまうことがしばしばあったかもしれない。
 “かもしれない”はいらないか。あった。それはつまり,ヨメとムスコへの依存でもあったろう。

● そういうあれやこれを思いだしながらの,天国体験だった。

2016年1月21日木曜日

2016.01.21 ネットは実名のほうが楽?

● ググッてみると,Twitterは日本で特に人気のあるSNSであるらしい。その理由を考察しているサイトがある。
 大きな理由のひとつはTwitterが匿名でいいことではないか,と指摘している。

● ぼくは実名でやっているので,ここのところはわからない。なんてことのあるはずもなく,先月までは匿名でブログを書いていたのだから,ここはわからないはずがない。
 が,実名でやった方がスッキリする。かえって気分的に楽になる。それは実名に替えて感じたことだ。

● 自分のメディアを持つという言い方が流行したことがあった。インターネットの普及期だったか。ホームページを作れば誰でも世界に向けて情報を発信できるのだ,自分のメディアを持ったのと同じことだ,と。

● が,自分のメディアであるためには,リアルとネットがつながらなければならない。何でつながるかといえば,名前しかない。
 普通は,リアルでの名前をネットに持ちこむ。が,逆でもいい。ネットで売った名前でリアルを生きるというのもありだろう。
 「ちきりん」さんがそれに近いように思える。「ちきりん」さんほどになってしまえば,「ちきりん」という名前でリアルとつながれる。

● 自分をネットに移すというときにも,同じ法則が働くだろう。ネットに移しても,リアルの自分は残るのだから。カット&ペーストのようなわけにはいかないのだから。

2016.01.20 ブログとTwitterの違い

● ブログを自分で書くようになると,人のブログを読まなくなった。Twitterを始めたら,人のツイートをどんどん読みたくなった。これが最も大きな違い。

● 人のツイートなんて読んだってどうせつまらんだろ,と思ってた。正直言うと。
 本とかテレビでしか知らない著名人のツイートを読むのは,でも,面白いんでした。茂木健一郎さんのツイートも,ちきりんさんのツイートも,大島優子のツイートもみな面白い。
 こちらのミーハー欲求を満たしてくれる。

● これらの著名人の多くはブログも書いているのだろうと思う。でも,それを読もうとは思わない。Twitterなら読む気になる。
 構えないで読めるからだよね。書く方も気楽に書いているからでしょうね。

● ブログは論文調になってしまう。Twitterに比べればなんだけどね。突っつきずらくさせるし,それなりに時間もかかるし。
 Twitterにはそれがない。結果的にフォローしている人のツイートを次々に読むことになって,時間がなくなり,それ以外のことができなくなる。

● ゲームにはまった人の気持ちが理解できるような気になっている。ゲームにはまるのはこんなものじゃないのかもしれないけれど。

2016年1月19日火曜日

2016.01.19 SMAP解散騒動

● 解散騒動っていうより,所属事務所からの独立騒動だろうか。直属の上司にしたがってジャニーズ事務所に反旗を翻そうとしたんだけれども,戦う前に敗れたという。
 いかんせん,この件に関してぼくが持っている情報はマスコミ報道のみだ。当事者以外の誰もがそうだろうけどさ。

● 「GOOD LUCK!!」以来,俳優としての木村拓哉に瞠目して,以後の木村ドラマはすべて見たし,過去のドラマもDVDを借りてひとつ残らず見ている。
 で,木村君を通じてSMAPを知り,このグループの類まれな流動性の高さに驚くことになった。

● 歌なんて歌唱力で決まるものじゃないってのを実地に教えてくれたのもSMAPだし,40歳を過ぎてもアイドルでいられるというのもSMAPが道を作った。
 ただ,一昨年の4月からテレビをまったく見ないことにして,以後,それを実行しているので,今さら何かを言うのもおかしなものだ。
 と言いながら,これから言おうとしてるんだけどね。

● Twitterでもいろいろ言われている。昨夜の「SMAP×SMAP」での生放送会見,今朝のフジテレビの特番に関してのものが多いようだ。
 SMAP=かわいそう,ジャニーズ事務所=悪,という図式に立つものが多い。

● 今の芸能プロダクションというのは芸者置屋だ。しかも,江戸時代の吉原の女郎だって10年で年季が明けたのに,今の芸能芸者は20数年にわたって置屋を儲けさせても,年季明けを認めてもらえない。売れてる間は籠の鳥。
 ジャニー喜多川もジャニーズを連れて,ナベプロから独立したんじゃないか。それなのに自分から独立していこうとするSMAPにこれほどの仕打ちをするのか。そのやり方はまるで893じゃないか。
 そういうことが言われている。
● ジャニーズ事務所を北朝鮮になぞらえる向きもある。
 トップを一族で世襲しているところを指しているのか,あるいは強権発動を1ミリも躊躇わないところを指しているのか。ま,両方だろうね。

● では,ジャニーズ事務所には一片の理もないのか。
 SMAPがどれほどこの国の芸能ファンに受け入れられているか。この騒動の顛末を彼らに生で語らせれば,ジャニーズ事務所が悪役を一手に引き受けることになる。それくらい,わかっていなかったはずがない。
 SMAPに思い知らせるとか,飯島さんにとどめを刺すとか,そんなことでバーターするほど,ジャニーズ事務所もバカじゃないと思うんだけど。

● いや,世間の常識といかにかけ離れていようと,業界の掟を自社の所属タレントと社員に知らしめようとしたのか。SMAPとてこの掟に背くとこうなるのだぞ,と。
 ひょっとして迷走するフジテレビを救うために,ジャニーズ事務所がひと肌脱いだってことか。まさか,それはないよねぇ。

2016.01.18 周回遅れのTwitterユーザー

● Twitterの前に短期間使っていたのがGoogle+。そのGoogle+にあげた投稿をそっくり消してしまった。たいしたことは書いてないんだけども,それなりに喪失感はありましたよ,と。
 バックアップはあった方がいいかなと思って,Google Keepで書いて,KeepからTwitterに送信することにした。そうすれば,Keepがバックアップになる。

● のだけれども,喉元過ぎればってやつで,今はそうしなくなっている。直接,Twitterアプリで書いてツイートボタンをタップしている。
 なぜなら,その方が簡便だから。140字のうちあと何字残っているかもわかるしね。
 逆に,ツイートしたあとに,Keepにコピーしておく? それはもっと面倒くさい。

● というわけで,もう投稿を消すなどというミスはやるまいという,根拠のない希望的観測のもと,バックアップは考えないようになった。易きに流れるものだ。
 それと,Keep→Twitterだとスマホのバッテリーもけっこう消耗する。これもやめた一因。

● その代わり,Twilogに登録した。Twilogは「Twitterのつぶやきをブログ形式で保存」するもので,ツイートを誤って消してしまえば,Twilogからも消えるので,「代わり」にはならないのだと思いますけどね。
 これは,自分のツイートをバーッと読み返したいときに便利。もし,Google+にこれと似たサービスがあれば,ずっとGoogle+を使っていたかもしれない。

● ぼくのツイートをフォローしてくれる人がいる。が,正真正銘のフォローのはずがないと思う。ぼくのツイートが読むに値するとは思えないからね。フォロー返しをお願いしますよってことでしょ。
 そこで,いえ,フォロー返しなんてしませんよ,といえるほどぼくは気丈ではない。速攻でフォローを返す。

● となると,タイムラインに彼や彼女のツイートが流れてしまう。それを流れないようにできないか。
 Twitterの解説書を書店で立ち読みして,ミュートっていう方法があることを知った。

● ちなみに,ぼくがフォローしているのは,著書を読んで知っている人(著者)がほとんどだ。今のところは。
 彼らには万を超えるフォロアーがいて,ぼくにフォローを返すなんてことはありえない。

● ともかく。Twitterが面白い。ゲームを含めて,こんなに面白いと思ったものは初めてだ。
 この世界は広くて深い。バラエティに富む。特に広さという点では,Google+は問題にならないように思う(といえるほど,Google+を使ったのか,オレ)。

● 誰かとつながるというSNS的な使い方ではなく,多くの人のツイートに触れて,世間は広い,いろんな人がいる,凄い人がいる,というのを知る楽しみ。
 もちろん,「有名人の生の声が聞ける」面白さってやつも入っている。っていうか,それが第一かもしれないんだけどね。
 それを味わうのにTwitterは格好のものか。

● 昔,「ほぼ日刊イトイ新聞」を読み始めたときには,ここに“上質な世間”が存在すると思ったものだ。ネットではこういう世界も作れるのかと思った。
 Twitterはそのとき以来の衝撃で,しかも「ほぼ日」より面白い。

● ミュートだのTwilogだのと言っているくらいだから,Twitterの超初心者なんだけど,実際に使って慣れながらいろんな操作法を憶えていけばいいだろう。
 ただ,今頃こんなことを言っているのは周後れのようではある。Twitterって,利用者数が伸び悩んでいるんだってね。


(追記 2016.02.21)

 ツイートを誤って消してしまえば,Twilogからも消える,というのは,初歩的な勘違いでした。消えないんでした。Twilogから削除してもツイートは消えない。
 となると,Twilogはツイートのバックアップになるんでしょうね。

2016年1月18日月曜日

2016.01.17 Twitterの効果は“幼児ごっこ”のようなものか

● 本当かどうか知らないけれども,“幼児ごっこ”を趣味(?)とする経営者がけっこういるという話を聞く。若い女性(保育士役)に幼児言葉で甘えるっていう遊びね。けっこうなお金を取られるんだろうけどね。
 それでもって,芯からリラックスする。普段はカミソリの上に立っているようなものだ。その緊張感を緩和する効果がある。
 ま,銀座のクラブなんていうのも,“幼児ごっこ”の延長線上にあるものかもしれないな。

● 経営者という仕事がビジネス書で語られるほどに大変な仕事なのかどうかは知らないし,それほどに孤独なものなのかどうかも知らない。こういう書き方をするってことは,それほどのもんじゃねぇだろうと思っているってことなんだけどさ。
 組織っていうのは,おしなべていうと,トップに立つと楽になる。それほどに大変だったら,社長になりたがる社員がいなくならないのが不思議というものだ。

● それでも,ま,孤独だし,責任は重大だし,大変ですよ,社長業は,と。
 それでね,ネットでいうと,ブログは経営者の本業で,Twitterは“幼児ごっこ”に相当するものだと,大雑把に分類するのはありかなと思ってるんですよ。
 Twitterって子どもになれるんですよね。いい大人が幼児言葉でつぶやいてますよ。かく申すぼくもそうなんだけど。

● これってけっこう快感なわけですよ。麻薬のような快感ですよ(麻薬の体験はないんだけど)。一度やってしまうと,なかなか抜けられない。
 一流と目される文化人,知識人がどんどんこの快感を味わっているようだ。これって味わったもの勝ちじゃないですか。

2016.01.16 自分をネットに移すということ

● もちろん,生身をネットに持っていくことなどできるはずがない。自分をネットに移すというのは,レトリック的な言い方だ。

● 自分をネットに移そうと思ってブログを始めたわけではない。ブログを書きだしてだいぶ経ってから,自分をネットに移すことを考えるようになった。
 極限まで大げさに言えば,自分をネットに移すことに成功すれば,永遠の寿命を得ることにならないか。生身の自分が死んだあとも,ネットの中に存在し続けるんだから。

● ぼくに小説を書く才能があったとする。小説を書いてそれがロングセラーになって,後世の人にも読み継がれる。とすれば,自分の分身を後世に残せたことになるといっていいだろうか。そうした才能の持ち主が羨ましいと思えるのはそこのところだ。
 100年近く前の映画を見る。もうこの世にはいないはずの俳優たちが,若い肢体を躍動させている。彼ら彼女らは映像化という技術によって不老不死を得たといっていいだろうか。

● ほとんどの人は平々凡々で,死んだらそれで終わる。彼を知っている人(たとえば妻や子や友人)もいずれ死に絶えて,そうなれば彼がこの世にいたことすら,知る人は誰もいなくなる。完全なる無に帰する。
 潔い。それでいいのだろう。あるいは,そうあるべきなのかもしれない。

● しかし,幸か不幸か(っていうのも斜にかまえた言い方だな。幸に決まっている)今はネットというものがある。ネット上に自分の痕跡を残すことができる。
 やりようによっては,自分のかなりの部分をネットに移すことができるのではないか。

● 今だってあまり読まれていないブログだ。書き手が亡くなったあとなんて,誰も読まなくなることは必定だ。
 誰にも読まれることのないブログはたとえネットのどこかに存在していたとしても,それは存在していると言えるだろうか。
 まぁ,そうした根源的な問題はあるわけだけれども,そこはあまり考えないことにして,とにかく自分をネットに移植しようじゃないか。

● そのためにせっせとブログを書いてきたんだけど,これはいくらやっても自分を移すことにはならないな。
 万のブログを書いて,ネットにあげようとも,ブログだけでは自分の頭の一部,建前だけしか移せない。

● Twitterでどうでもいい些事をアップすることで,自分をネットに移すことの次元がひとつあがったような気がする。自分の生活の息づかいのようなものまで移すことができる感じだ。
 で,その感じというのは,けっこうな快感を伴うものだ。Twitterで頻繁につぶやいている人がたくさんいる。それは,この快感あってのことではないかと思う。

● 同時に,自分は徹頭徹尾たいした存在ではないことがわかるわけだけれども,そんなのは端からわかりきっていたことで,見える化されて驚く話ではない。

2016.01.15 Google+からTwitterに移行 2

● Google+からTwitterに移行した。Google+をTwitter的にしか使わなかったからというのが主たる理由だ。
 けれども,もうひとつ些細な理由があった。

● Google+のプロフィールとブログ(Blogger)とのリンクが不安定になったのだ。ブログを立ちあげると「適正なGoogle+プロフィールを取得していないようです」と言われたり,「すでに取得済みです」と言われたり。
 つまり,ブログの作成者用ページが立ちあがらないことがあるようになった。

● これに少し嫌気がさした。だったら,Google+プロフィールとのリンクは切って,元に戻したほうがスッキリすると思ってしまった。
 ただし,Google+で本名を出しているので,それは継続することにした。何かあったときに,逃げも隠れもできない状況に自分を置いておくのがいい。
 それがネットの透明性を高めていくという大上段の議論はさておいて,気分的にスッキリする。気分としてはかえって楽になった。

● Google+でつぶやかなくなると,Google+にあげるのはブログ更新の告知だけになる。当然,閲覧者が減り,告知の効果も限定的になる。
 であれば,ブログ更新もTwitterで告知すればいいわけで・・・・・・。というような次第で完全にGoogle+から離れることになった。

2016年1月17日日曜日

2016.01.14 理想のモバイルスタイル

● モバイルなんて自分には関係ないと思っていた。っていうか,今も半ばそう思っている。
 ただね,目下のところ,Twitterに手を染めて,Twitterにハマッてしまっていてね。ゲームにハマッたのと同じだと思うので,いずれ落ち着くはずだけど。

● でね,ツイートするときに,スマホを使っているわけですよ。
 なので,目下のモバイルスタイルはスマホを持ち歩くこと,ということになる。

● Twitterに頻繁にツイートしている人がいる。たとえば,茂木健一郎さん。茂木さんのツイートを見ていると,スマホではなくパソコンでやっているのだろうなと思える。
 キーボードで打ちこむのじゃなかったら,あれだけの量は無理だと思う。

● もしも自分もモバイルということをやるんだとしたら,“スマホ+外付けキーボード”とか,“タブレット+外付けキーボード”とか,そういうんじゃなくて,端的にパソコンを持ち歩くことになるんだろうなと思ったわけです。
 今どきのパソコンって起動も速いらしいから,ああだこうだ言わないでノートパソコンを持ち歩くのが最も簡便で,最も対応領域が広いかな,と。

● キングジムからPORTABOOKというノートパソコンが出ましたよね。ヨドバシでは99,140円で予約を受け付けている。
 キーボードのギミックがいかにもキングジム。バッテリーの駆動時間がちょっと短いんじゃないかと思ったりもするんだけどね。
 これが出たんだったらポメラは安くなるのかと思ったら,ぜんぜんそういうことにはなっていない。これはこれで好ましい。

● PORTABOOKでなくてもいいんだけど,ノートパソコンとWi-Fiルータを持ち歩けば,バババッとツイートできるわけだね。
 今のところ,Twitterにぼくの生活は支配されてしまっているので(というわりには,そんなにツイートしていないけど),それに順応しようとすれば,パソコンを持ち歩くというのが,現実的な対応ということになる。

● ただし,それ以前にTwitterにハマッている状態を何とかしなければならんね。

2016年1月12日火曜日

2016.01.10 旧新橋停車場-駅弁むかし物語

● 旧新橋停車場の鉄道歴史展示室で開催中の「駅弁むかし物語」を見てきましたよ,と。

● 駅弁の発祥は1885(明治18)年に宇都宮駅で誕生したという説がある。この展示パンフレットによれば,それが通説になっているらしい。
 「握り飯に香の物を添えて竹の皮に包んだもの」で,今の華やかな弁当とは別物だった。

● ぼくの地元栃木県ではほかにも駅弁にゆかりがあったりする。横川駅の「峠の釜めし」の容器は益子で焼いたものだ。
 長野新幹線ができてしまって,「峠の釜めし」の販売数も減ってしまっているんだろうけど。

● そういう縁があってか,この展示に出品されている駅弁の容器,特にお茶を入れる容器は,ほとんどすべてが,栃木県立博物館が所蔵しているものだ。こういうものを一所懸命に集めていたのか,栃木県立博物館
 お茶も昔は陶器に入れて売っていた。冷めにくいし,容器の臭いがお茶に移らない。が,この頃から容器のポイ捨てが問題になってきたようだ。
 今は缶かペットボトル。しかも,リサイクルの流通経路も整備されている。こういうところ,社会は確実に進歩しているのだなと思う。もっとも,陶器だったら長い間には土に戻るのかもしれないけどさ。

● 昔,電車に乗るということ自体がたまの贅沢だった時期があった。っていうか,そういう時期が長く続いた。
 駅弁なんて,たとえ今の目から見れば粗末なものだったとしても,庶民層には手が届かないものだったはずだ。
 「鯛めし」の掛け紙を見ながら,そんなことを思った。

2016.01.10 新橋の烏森神社

● 初詣というのは年中行事であって,信仰があるのか,信心があるのかと問うのは,ヤボというものだろう。信仰や宗教には関係なく,現世利益をお願いに行くものだ。

● その初詣に今年はまだ行っていなかった。お願いしたいような現世利益がないわけではない。
 でも,行ったからといって叶うわけでもない。そういう一般則にしたがったといいますかね。

● ところが,たまたま新橋にやってきましたよ,と。では,烏森神社に行ってみますかということではなく,ぶらぶら歩いていたら烏森神社があったわけ。
 都心の神社らしく境内はないに等しい。元々は広かったんだろうね。それをドサクサに紛れて国に取られてしまったよ,というわけなんだろう。その後,国が民に放出したんだろうな。

● 狭い神社なんだけど,ここで働いている人はけっこう多い。神籤も売っていれば,御祈祷もしている。由緒ありげな神社だ。
 縁起が書かれた説明板はあったけど,どうもこういうのって読む気にならないでしょ。

● ぼくも神籤を引こうと思って,初穂料300円を指示のとおりに賽銭箱に投げ入れた。神籤が入っている箱にそう書いてあったわけね。
 そしたら。箱の中に神籤はなかった。おいおい,300円返せよ,烏森神社。
 いやいや,賽銭ですよ,仕方がないね。いつもは10円しか入れないんだけど,今日は特別だ,と思うことにした。

● 銀座からほんのわずかしか離れていないのに,この雰囲気。来るたびに不思議に思う。ガラッと違うんだもんね。新橋と銀座って。
 どっちがいいかって言われれば,圧倒的に新橋がいい。っていうか,自分が生息できる場所はこちらだと思う。なぜか。飲み代が安くてすむからだ。

2016.01.09 新橋の「味の時計台」

● 札幌に本店があるラーメンのチェーン店。かつては宇都宮にもあった。国道4号沿い。御幸になるんですかね。
 ここ,うちの奥さんが好きで,っていうことはまだ小さかった息子も母親の好みを自分の好みとしていたわけで,息子もここの味を好んでいた。
 ぼくもまた,嫌いではなかった。是非にともいうほどではなかったと思うけど,それは要するに食に対するこだわりが薄いからだ。

● だけど,やはりお客が減ってきてたのかなぁ,忽然とという感じで撤退してしまった。
 場所の問題もあったかも。国道沿いって,いいようで意外に車を停めずらかったりするし,逆に出るときには,歩道を,しかも右側通行で,走ってくる自転車がいたりするので,かなり気を遣うことになる。

● とにかく,「味の時計台」は宇都宮から消えてしまったよ,と。それが新橋駅の近くにその「味の時計台」がある(っていうか,たしか上野にもあったし,東京だったらそちこちにあるんでしょうね)。
 それを見つけたとき,奥さんが喜ぶまいことか。ただね,すでに夕食は食べた後だったんでね,いくら何でもここでラーメン喰ったら,食べ過ぎなんてもんじゃないでしょ。もう食べ過ぎるくらいに食べてるんだから。

● といって,通り過ぎようとしたんだけど。いつになく奥さんが頑強で。彼女の名誉のために言っておくけど,彼女は酒は飲めない体質だし,けっこう小食のほうだ。よほど食べたかったんだろうね。
 で,入ってみましたよ,と。味噌ラーメンを注文した。チェーン店なんだからあたりまえなんだけど,かつて宇都宮で食べたのと同じ味だった。甘めの味噌。おそらく西山製麺だろうか,お馴染み感があるちぢれ麺。食べてみれば旨かった。完食してしまった。

● もうだいぶ遅い時刻だったんだけど(宇都宮だとそろそろ終電の心配をしないといけない),仕事帰りと思われる30歳代前半と思われる女性が一人で食べていた。食べ終えて,サッと立ちあがって会計するのを目撃。格好いいなぁと思った。
 この年齢の女性がひとりでラーメンを食べに来るっていうことじたい,地方ではあまりみかけない光景だ。東京でもそうそうはないかもしれないね。香港やシンガポールではけっこう普通に見かけたように思うんだけど。

 しかもその女性が「清楚で知的な雰囲気の,ショートカットで隠れ巨乳」(藤谷治『あの日,マーラーが』に登場する名文句)だったりすると,これはもう絶景といっていい光景になるわけですよね。

● ま,「味の時計台」を久しぶりに体験したというわけでした。めでたし,めでたし。

2016.01.09 東京ステーションギャラリー

● 初めて行ってみましたよ。東京駅にある美術館。公益財団法人東日本鉄道文化財団が運営している。

● ぼくは音楽はわりと聴くほうだ(と思う)。その記録をブログに残していたりもする。けれども,美術はからっきしだ。たぶん,鑑賞作法の初歩的なところが身についていないのだと思う。鑑賞する術を知らないのだと思う。
 そのことについてコンプレックスはあるけれども,コンプレックスのまま放置してもさしつかえないとも思っている。

● ではなぜこんなところに迷いこんだのか。『東京エキマチ』の影響だろうな。ここに載っていた東京駅近くの美術館はぜんぶ行ってみようなどと思ってしまったんですよ。
 東京駅周辺美術館共通券っていうのがあるんですね。4館(出光美術館,三井記念美術館,三菱一号館美術館,東京ステーションギャラリーで1回ずつ使える。価格は2,500円。こちらを購入。

● 東京ステーションギャラリーで開催されているのは,“パリ・リトグラフ工房idemから―現代アーティスト20人の叫びと囁き”というリトグラフ作品の展示。
 猫に小判,豚に真珠。言い方はいろいろあるけれども,まさにそう。頑張って最後まで見たけど,何で頑張らなくちゃならない?

● バルテレミー・トグォはカメルーンの出身。彼の「裸のアマゾン」の前にいた時間が一番長かったかもしれない。
 JRの「都市のシワ ロサンゼルス」。都市のビル群と老人の顔をつないだもの。この感性はわかるような気もするが,たぶん気がするだけだろうな。
 デヴィッド・リンチの作品のいくつかにも時間を使った。

● ぼくなんかは,美術=芸術=御大層なもの,っていう捉え方をしてしまう。そうじゃないのかもしれないね。もっと軽いものかもしれない。
 一度,美術史の解説書に目を通しておいたほうがいいかも。分厚くないやつ。“鑑賞の手引き”なんていうのより,美術史の解説のほうが,具体的に役に立ったりすることがあるからな。

2016年1月9日土曜日

2016.01.09 東京エキマチ

● 手元に,東京駅でもらってきた「東京エキマチ」というフリーペーパーがある。“駅から街へ,街から駅へ”“東京駅と街がつながるフリーマガジン”ということ。
 発行は東京ステーション運営協議会。実際に作っているのは,交通新聞社。

● vol.3では京橋が紹介されている。それと,東京ステーションギャラリーを始めとして駅近隣の美術館の紹介。
 さすが,日本の中心地。かなりハイブローな内容になっている。ここがハイブローにならなかったら,日本のどこがハイブローになるのかという話でしょうけどね。
 紹介も詳しくて,下手なガイドブックより役に立ちそうだ。

● ところが,これ,東京駅にしかない。近隣の駅には置いてあるのかもしれないけれども,宇都宮駅にはない。
 ということは,このペーパーは東京駅を訪れた人のためのものであって,これを見せて東京駅とその周辺に行ってみようと思わせたい,とは考えていないということだね。

● ネットではバックナンバーも含めてPDFで読めるようになっている。東京に住んでいる人よりも,地方在住の東京フリークのほうが,東京に詳しかったりするんだろうけど,そういう人はキッチリとネットで読んでいるのかもしれないな。

2016年1月8日金曜日

2016.01.08 Google+の投稿を消してしまった件 2

● 昨日,「Google+の投稿を消してしまった件」を書いて,あろうことかそのエントリーも消去してしまった。
 詳細は略す。6日の夜,酔った状態でパソコンを操作したのがすべての原因。

● ともかくせっかく書いて保存までしたのが,次の保存で消去されてしまったという。ガックリくるね,こういうの。といっても自分が悪いんだから,矛先は自分に向くしかない。
 翌日(つまり今日)書き直した。泣きっ面に蜂とはこういうことか。

● ところで,Google+の投稿はぜんぶ消えてしまったんだけど,さすがGoogleで写真はすべて残っている。写真がメインでそこに短いテキストを添えた投稿なので,写真が残れば御の字といえば御の字。
 写真から復旧して同じツイートを流したりもしているけれど,さすがにこれはバカバカしい。バカバカしいんだけど,シコシコとその作業をしている。バカバカ,シコシコ,ですな。

2016.01.07 Google+の投稿を消してしまった件

● 先月14日からGoogle+に自分報道を始めた。以来,25日間,Google+におよそどうでもいい“つぶやき”を続けてきた。で,その場をTwitterに移そうと決めたとたん,25日分の投稿を誤って消してしまった。

● どうしてこういうことが起きたかというと・・・・・・。
 じつは自分の投稿を「コレクション」に入れていた。どうしてそんなことをしたかというと,ホーム(タイムライン)には自分以外の人の投稿も表示されるんですよ。
 誰もフォローしていない(誰にもフォローされていない)んだけど,たぶん,Googleが気を利かせて,おまえはこういうのに興味があるだろうというわけだね。

● これがけっこう煩いと思ってしまってね。といって,それを避ける方法がわからない。「コレクション」に入れておけば避けられるだろう,と。
 で,月ごとに「コレクション」という名のフォルダを作って,そこに入れたわけ。案の定,自分の投稿だけを取り分けておくことができた。
 とはいえ,それも何だかなぁと思えてきて,「コレクション」から出そうと思った。が,今度は出し方がわからない。

● 「コレクション」を削除することはできる。「コレクション」を削除すると中身もなくなるよと警告される。だけども,中身はホームにもあるわけだから,無問題でしょ,と。無問題どころか,それが大いに問題だった。
 要するに,全部,消えてしまった。

● ハードディスクのデータをそっくり飛ばしてしまったという経験はさすがにないけれども(昔は,Windowsがあるドライブにデータを置くな,と言われてませんでしたっけ),リムーバブルディスクのデータを消してしまったことは一再ならずある。ファイル復旧ソフトなんぞのお世話になったこともある。
 ので,データのバックアップは二重に取るようにしている。

● だけども,“SNSへ投稿=クラウドにあげる”だから,バックアップが必要なんて思いもよらなかった。
 SNSの解説書には,投稿と同時にEvernoteにも保存する方法なんてのが説かれてたりする。何でそんなことをするのかわからなかった。サービスが停止されるかもしれないから,それに備えておく必要があるのかねぇ,程度に思っていた。
 が,ぼくのようなヤツがけっこういるのかもしれない。であれば,Evernoteにも保存しておくことに意味はある。

● 消えてしまった投稿の内容ってのは,それこそどうでもいいものばかりだ。こんなブログも書いていて,それにも載らないようなものだから。些事も些事。
 でも,意気消沈している。日々の生活は些事の積み重ねだから,その些事のログがなくなると,その間の生活そのものがなくなったような気がするんですね,大げさに言えばね(でも,先月14日まではそもそも残しておくことのなかったログなんだけど)。

● でも,これで否応なくTwitterに移行できる。
 あとは,同じことを繰り返すかもしれないから,バックアップ的な対策を考えたほうがいいかどうかだ。っていうか,これはもう考えた。
 Google Keepでツイートを書いて,KeepからTwitterに送る。そうすれば,自動的にKeep(Google Drive)にバックアップが残ることになる。
 試してみたところ,問題なく送れる。Google+のときからそうしてればよかったよ,と思うんだけど,この知恵(?)はデータを失うという体験と引換でなければ思いつかなかったな。

● ちなみに,Keepで書くと140字を超えてもわからない。それが問題といえば問題だけど,140字って400字詰め原稿用紙で7行分。巷間言われているより,長くないですか。
 足りないことはそんなにないような気がするんですけどね。

2016年1月6日水曜日

2016.01.06 Google+からTwitterに移行

● Google+を使って自分報道をしてた。写真がメイン。そこに短いテキストを添えてアップするという感じ。
 そうであるならTwitterのほうが向いているのではないか。

● Twitterでは本を読んで知っている著者たちをフォローしている。自分ではツイートしていない。読むだけだ。
 それでもいいんだけど(どうせたいしたことはつぶやかないわけだから),1つのアプリで両方すむんだったら,そのほうがいいんじゃないか。

● Google+を始めたのはブログのPVを増やしたいと思ったからだった。その効果もTwitterのほうがより期待できるのではないか。
 と,まぁ,細かいことをウダウダと考えた。

● 考えた結果,今日からTwitterに移行した。本来,Google+とTwitterって,それぞれできることも違うものでしょ。移行したりするものじゃないような気がする。
 ただ,Google+にいたのは25日間だけれども,Twitter的な使い方しかできなかったんですね。Google+のごく一部をかすめただけなんだろうな。

● ただ,Google+のほうが書きこみはしやすいですね。アプリの立ちあがりも早い。
 なおかつ,ぼくの書きこみを間違いなく見てくれていたと思われる唯一の人から,せっかくGoogle+に慣れたんだから,Twitterに替えてんじゃねーよ,このアホ,と言われた。

● こういうのは慣れでしょうからね。その人には申しわけないけれども,基本,Twitterに慣れていこう。その人にも慣れてもらおう。

● じつはいやでもそうせざるを得ない事態が発生した。Google+に上げていた投稿の大半を誤って消去してしまったのだ。これでGoogle+への未練(?)を完全に断つことができた。
 とはいえ,意気消沈もしている。25日分の(Twitterの用語でいえば)ツイートが消えてしまったんだからね。

2016年1月5日火曜日

2016.01.05 最近の変革ほど画期的

● ITの進化。ワープロ専用機から始まると思っているけど,ワープロ専用機に接したときの驚きは忘れられない。ワープロ期の始まりだ。
 何とかして手に入れたいと思ったけれども,高嶺の花。数百万したんじゃなかったかな。が,価格下落はこのときから急激で,初めて見てから3年後には自分用のパソコンを買うことができた。15万円くらいだったと思う。

● ワープロは使い倒した。そのためにパソコンには乗り遅れた。NECの98が一世を風靡するようになっても,ワープロで充分だねと思っていたから。
 この頃から,テキスト入力ができればいいと思っていたんだろうな。

● 遅ればせながらパソコンに移行。でも,当時はインターネットなどはない。パソコン通信というのがあって,文字のやりとりはできた。つまり,メールと掲示板のようなものはあった。パソコン通信期だ。
 ぼくもニフティに入会した。ほとんど使わなくて,ひょっとすると今でも毎月の支払いを続けているのか。んなことはないか。

● 基本はスタンドアロン。パソコンは個人の作業を援助して効率化してくれる道具だった。ワープロ,表計算,・・・・・・。それでも充分に画期的だと思った。

● そのうちにインターネットがあたりまえになった。インターネット期に移行するにあたってWindows95の果たした役割は小さくないと思うけれども,決定的だったのはハードの進歩。特に,ADSLだったと思う。初のブロードバンドで定額制。
 通信速度と通信料金の関係で,初期のインターネットはパソコン通信と大差なく(といっても,パソコン通信は基本的に大きくはあっても閉じられた世界でのやりとりだったけれど,インターネットは開かれた世界),テキストベースだった。写真だの音声だのをアップしたり送ったりするのがあたりまえになるのは,ADSLが登場してから。

● そのうちにブログができた。ぼくはそのブログ期に入ってから,しかもだいぶ後期になってから,ネットに自分を出すことを始めた。それまではもっぱら読む専門。ネットは情報収集の場。
 誰しもそうだと思うんだけど,情報収集といっても勉強ではなく娯楽でね。

● 今はSNS期といっていいんだろうかなぁ。
 ぼくは,初期の変化に圧倒されて,以後の変化には鈍くなっていたようだ。だものだから,以後の変化を正当に評価することができなかったきらいがある。
 こうして並べてみると,後の変化ほど変化の幅が大きいよね。

● それを担った立役者も,初期には富士通やNEC,東芝といったメーカーで,次はMicrosoft,Apple,次のフェイズではGoogle,そしてFacebookやTwitter。

● 次にはどういう変化が来て,誰がそれを担うのだろう。

2016.01.04 年賀状を読んでいない

● 昨年末,年賀状を出し忘れるところだった。これはとにもかくにも作っていないことに気づいて,大急ぎで作成,たしか29日だったか,なんとか投函することができた。

● 年が代わって。今度は届いた年賀状をまだ読んでいない。
 この理由っていうのはひじょうにハッキリしていて,Google+だ。こんなブログを書いているから,もう発信するものなど何もないと思っていたところ,さらなる些事を(主に写真で)発信するようになった。
 さらに発信できる些事があったことが嬉しく,その些事を発信後に見返すのがけっこう楽しいことを発見。だものだから,年賀状に気が行かなくなっていた。

● 以前は年賀状は立派にコミュニケーションの手段だった。コミュニケーションというか,自分の近況を知らせるための年に一度の機会。
 だものだから,パソコンを使って自分の近況をビッシリと書いたし,文章もかなり練り直したものだ。

● ところが,ブログを書くようになると,年賀状への思い入れはだいぶ少なくなり,Google+を使うようになった先月には,年賀状なんて頭から消えてしまった。
 届いた年賀状を読むのも同じ。放置状態。

● 現金なものだなぁ。これってかなりわがままですよね。自分の言いたいことはネットにあげてスッキリ。それで満足しちゃって,人から届いたものを読まなくなっているんだからね。

2016.01.03 ララスクエアの地階は若者のたまり場

● 宇都宮駅前のララスクエア。ロビンソンの時代は,地階はいわゆるデパ地下になっていた。
 が,この場所でデパ地下は成立しないのか,今は半分はゲームセンター,半分が食堂街になっている。
 クレープの店があって,その先が“スクエアプラザ”なる広場になっている。テーブルと椅子が並んでいる。

● そこに小学生,中学生,高校生がたむろしている。6:4で女子が多い。おしゃべりしてたり,居眠りしてたり,図書館の学習室かスターバックス代わりに,ここで参考書を広げていたり。
 ゲームセンターからの騒音(?)が当然,聞こえてくるんだけど,それを含めて落ち着くんだろうね。街場の雑踏が少し煮詰まった感じ。

● 地階というのもいいんだろうな。せわしない娑婆からちょっと逃れた感があるんだよね。

● 毎日ここに来る大人もいる。半ホームレスなのか,家にいられない事情があるのか。同じ場所で同じ姿勢で居眠りをしている。
 正直,ぼくもここに自分の居場所を作りたいと思わないでもない。が,難しそうだ。ぼくが自分の居場所を作ってしまえば,若者かワケありの大人の場所がひとつ減ってしまうことになるし。

2016.01.02 中国人の訪日者が増えていること

● 秋葉原なんかはもうだいぶ前から,中国人旅行者が大得意客になっていたのだと思うけれども,その後も減るきざしはないんでしょう。東京は中国人であふれている。

● 先月の某日,久方ぶりに竹芝のインターコンチネンタルに宿泊した。安いプランがあったからだっていうのが情けないんだけど。
 ラウンジで朝食を食べていたら,隣のテーブルに中国人の夫婦がやってきた。それなりの年配だ。まったくためらわずに,自分たちで2つのテーブルをくっつけて,4人分を2人で使った。
 けっこう混んでいた。その2つだけだったのではないか,空いていたのは。後から誰か来るかもしれないとは考えないようなんだな。来たらテーブルを離すとも思えないんだよ。

● ダンナのほうは事業家か商売人か。分厚い英語の本を広げた。ところどころラインマーカーが引いてある。英語圏に住んでいる華僑か。シンガポールかい。
 お金はあるんだろうし,個対個で対峙したら,ぼくなんか歯が立たない相手だと思うんだけど,どうも違和感がぬぐえない。こいつらが場を席巻するようになったら,こちらは逃げだすしかない。

● チェックアウトのときも,中国人のファミリーが目立っていた。中に若夫婦がいて。
 ヨメがぼくをつついて言うには,あのね,下品なことをいうようなんだけどね,と。下品なこととわかっているなら,言わないで黙っていればいいのに。
 あの人が持っているバッグね,400万円するんだよ,車が買えるよね。
 ほぉ・・・・・・。ぼくらが乗ってる車なら2台買って,お釣りがくる。というわけで,ぼくも下品の仲間入り。

● 銀座も中国人が増えてしまっていて,もはや「銀ブラ」は成立し得ない状況だろう。銀座ネイティブにしてみれば,地方からのお上りさんも中国人も似たような存在なのかもしれないけれど。

2016.01.01 「青春18きっぷ」を買わなかった

● この冬は「青春18きっぷ」を買わなかった。大学生の休みに合わせて,春,夏,冬と発売されるんだけど,この切符を買わなかったシーズンは,ひょっとすると初めてかもしれない。
 息子が小さかった頃は,このシーズンは海外に出かけることも多かったから,初めてってことはないんだけど,そういう一時期の例外を除けばたぶん初めてだ。

● なぜ買わなかったかといえば,必要がなかったから。「青春18きっぷ」をどう使うかというと,ほぼ百パーセント,東京往復に使う。
 5回分で1枚になっているから,日帰りで東京まで往復するのが1回か2回しかないのであれば,買ってしまうと損をする。
 その東京日帰りというのが,今シーズンはあまりなかった。

● 昔は,青森まで行ったり,西日本を回ったり,只見線に乗ったり,色々と使ったものだ。若くて独身だからできたともいえるけれども,それくらいしかやることがなかったからできたのだともいえる。