牧志からモノレールに乗れば,終点が首里。
● 初めて相方と沖縄に来たときに(パックツァーだった),首里城は訪れている。けれど,ツァーの一行と集合写真を撮ったことしか憶えていない。
ので,実質は今回が初めてのようなものだ。
● 世界遺産バブルもそろそろはじけるのではないかと思うんだけど,首里城はのびやかで気持ちのよい空間だ。建物が建て込んでいないのがひとつめの理由だ。
この対極に位置するのが日光の東照宮ではないかと思う。東照宮は建物のひとつひとつがデコラティブのうえに,建物が密集しているので,閉塞感というか,ある種の鬱陶しさを感じる。正直,東照宮に長くとどまるのは苦痛だ。ぼく一個は,だけど。
首里城は建物がスッキリしているうえに,何もない空間が広がっている。これなら長くとどまっていられる。
小さくて自分に従順だった息子。その頃の子供っていうのは,母親にしてみればこのうえなく可愛い存在に違いない。子供がその可愛い存在でいてくれる期間はしかし,そんなに長くはないものだ。
● 正殿内部でこちらを見て写っている息子の写真を,相方はこのほか大事にしている。息子が立っているその場所をもう一度見ておきたい。
それが今回,首里城に来た理由のほぼすべてだろう,相方の場合は。
沖縄県立芸術大学 |
と思ったんだけど,Wikipediaによれば「戦前は正殿などが旧国宝に指定されていたが,1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され,わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない,本格的な復元は1980年代末から行われ,1992年(平成4年)に,正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された」そうだから,居抜きなんてことはあり得ないんでした。
● しかし。正殿を壊して大学の建物を作ったのだとすると,ずいぶん乱暴なことをしたものだ。
もっとも,それは今だからそう思うのであって,完膚なきまでに打ちのめされた敗戦直後にあっては,大学は希望の灯火であり,復興のシンボルだったのかもしれない。歴史遺産よりこれから先の未来の方が大切だった。そういうことなのかもしれない。
● ぼくも大学は自宅からだいぶ遠いところに行った。そこまで行くんだったら,どうして沖縄に行かなかったのかと思うことが何度かあった。
たぶん,高校3年生の自分は,沖縄も考えたんだと思う。考えたけれど選ばなかったに違いない。自分の学力では合格できないと思ったか,沖縄は台風銀座だと思いこんでいて,恐れをなしたのか。
● もし沖縄の大学に行っていれば,その後,自分の人生は変わったろうか。おそらく何も変わっていなかったろう。長男だから卒業したら地元に戻らなきゃっていうのをぼくは疑わない人間だったから(当時は多くの人がそうだったと思う)。やはり栃木に戻っていただろう。
たんに4年間をどこで過ごすかの違いにとどまったろう。
● であっても,“もし沖縄の大学に行っていれば”という妄想は,快を伴うものだ。若い頃にはあったかもしれない自分の可能性を弄ぶ快感だろうね。
実際には,沖縄の大学に行っていたとしても,自分の未来は変わらなかった。
ただね,若いときの4年間を沖縄で過ごしてみたかったっていうのはありますね。当時は今以上に内地との温度差があったに違いない。いうなら,琉球という国で4年間の留学生活を送ってみたかったっていうのはありますよ。
● さらに脱線を続けるんだけど,「太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に地下壕を掘り陸軍第32軍総司令部を置いたこともあり,1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け」とWikipediaにはある。
このあたりが末期帝国陸軍のどうしようもないところ。文化財を守るという発想がまるでない。それどころじゃなかったということなんだろう。そういうときでも“それどころじゃなかった”にならないのが,何というのかな,その軍隊の懐の深さなんだろうけどね。
● まして,民間人の避難先に軍部も非難したなんてのは,どうにもならないやね。そういう行動を取った軍隊がこの国にあったっていうのは,ほとんど国辱ものではないか。
無様にもほどがある。民間人を楯にして自分たちを守ろうとしたと言われても返す言葉はないはずだ。
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