● かつて“内山田洋とクールファイブ”が歌っていた「東京砂漠」(作詞:吉田旺)の一節。
空が哭いてる 煤け汚されて
ひとはやさしさを どこに棄ててきたの
ビルの谷間の 川は流れない
人の波だけが 黒く流れて行く
● 「ジュリアに傷心」でチェッカーズのフミヤが叫んでいた一節。
俺たち都会で大事な何かを
失くしちまったね
太田裕美が歌っていた「木綿のハンカチーフ」も,都会に行った恋人が変わっていく様子を,田舎に残った彼女が淋しく見つめるという内容だった。
● 都会は人工で田舎は自然。人工である都会は悪で自然である田舎は善。都会は人をダメにするところで,田舎は人を癒やすとこと。人は本来,無垢なるものであって,都会がその無垢を破壊するという考え方。
この紋切り型の発想は,子供(特に男の子)は野原を駆け回っているべきで,家にこもってゲームなんかしていてはいけないという,何の根拠もない意見を自動的に生む。
● ぼくは,幸か不幸か,野原を駆け回るタイプの子供ではなかったので,そういう考え方には与しない側にいるんだけれども,今でも大人の中にはこの考え方の残滓があるように思える。
ゲームをやって大きくなった大人の中にも,子供は野原を駆け回れという輩がいるやに思える。不思議なことにと言いたいのだが,残念ながら不思議でも何でもなく,人は変節するものだ。その時,その場に応じて,自分に都合のいい言説を半ば無意識に取り入れて恥じるところがない。
そうでなければ生きていけないのかもしれないけれど。
● しかし,一方で,日本人の多くは都会に慣れてきたようにも思われる。必要以上に都会を怖れなくなった。都会をうまく使えるようになった。都会が身近になった。
東京はけっして砂漠などではないことがわかってきた。都会は快適だとじつは昔からヒッソリと思っていたんだけれども,その“ヒッソリ”を振り払ってしまえるようになってきた。
● 今は東京の悪口を言う人はあまりいなくなった。東京のみならず,都市が美しくなったせいもあるだろう。京浜工業地帯,阪神工業地帯という言葉がかつては社会科の教科書に載っていた。公害もあった。
今や,そっくり過去のことになった。今の都市は美しい。川はサラサラと流れている。川岸に立ってもかつてはあった悪臭がまったく漂ってこない。東京湾も隅田川も景勝の地を作っている。
都市は美しく快適なところだ。もちろん,猥雑も危険も存在しているのだが,きちんと棲み分けができているようだ。猥雑や危険の取扱いが複雑ではなくなった。そうなれば,猥雑も危険も都市の魅力である。
● ぼく一個の考えを述べれば,次のとおりだ。
田舎は相互監視社会だ。田舎にいるとストレスまみれにならざるを得ない。だから,そうじゃない人を許せなくなる。ゆえに,田舎は人をスポイルする。成長したければ田舎を離れよ。
ぼくらは文字どおりの動物なのだ。生まれたところに根を生やしているわけではないのだ。動くべきだ。故郷などという美名に惑わされるな。帰るところなどない方が幸せだ。
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