2019年1月11日金曜日

2019.01.11 勝ちや負け,成功や失敗なるものは存在するか

● 知人が亡くなった。50歳前だった。先月の忘年会では同じテーブルに座ったのだ。ごく普通にしていた。君は仕事だけで遊ばないからなぁ,とからかわれて苦笑していたのだ。
 それが突然,向こう側に渡ってしまった。

● 死は突然にやってくるのだな。いくつになってもそうなのだろう。予測できるものではない。直前になっても気づかない。事前に想定していたように展開するものではない。
 したがって,予め備えることもできない。そういうものなのだと思い決めた方がいいのだろう。

● 表面上は問題なしだとしても,盤石の問題なしなのか,ギリギリのバランスのうえに立った問題なしなのかは,誰にも区別ができない。本人にもわからない。
 しかも,盤石がギリギリに勝るとは限らない。ギリギリの問題なしを続けて長寿を全うした人は数限りなくいるだろう。盤石でも早死にする人はいる。

● 人間が死ぬのはあたりまえのことであって(これだけは確率100%だ),そもそもが悲しんだり驚いたりすることではないのかもしれない。たとえ若くして死んだとしてもだ。
 できては消える泡の大群。ぼくらは誰もが泡のひとつだ。

● 生きることをあまり大げさに考えるべきではないのかもしれない。たまたま生まれてきたにすぎない。
 生まれた以上は何らかの使命があるはずだとか,社会に貢献すべきだとか,そういうのは戯言でしかないのではないか。

● 勝ち組だとか負け組だとか,世間はいろいろ言うけれども,そんな評価は笑止の沙汰だ。負け組コースに乗っている人は,勝ち組コースの人のようには動けないのだ。逆に,勝ち組コースに乗っている人に,負け組の人のように動けといっても,できない相談だろう。
 勝ち組の人の動きが是,負け組の人の動きは非。そんなのは誰が決めたのか。悠久の目で見れば,一時の流行でしかないのではないか。ほとんどの人がその流行の色眼鏡で見ているだけではないのか。

● いざ死に臨んだとき,勝ちだの負けだの,成功だの失敗だの,そんな思いが最後によぎることがあるんだろうか。
 なにせ未体験なので,想像するしかないのだけれども,どうもそれはないような気がする。人生は棺を覆うまでわからないと言われるが,その段になれば,ひとつの生を終えただけということになるのではあるまいか。そのような評価軸の一切が,本人の中から消滅するのではあるまいか。

● ところで。突然死ではない死もある。その典型がガンだ。自分が死ぬとわかってから実際に死ぬまでに,数ヶ月か数年の猶予が与えられる。
 ガンになって余命の宣告を受けるのと,突然倒れるのと,どちらがいいかという話を知人2人とした。
 2人とも準備ができる分,ガンの方がいいと言った。ぼくは余命宣告を受けたあとに,死に向けた準備ができる自信がない。

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