2019年1月18日金曜日

2019.01.18 「充実」っていいことなのか

● ぼくが子供の頃,大昔だが,世の中を風靡していた2文字言葉は「努力」だった。ぼくが子供で学校が世界のすべてだったからかもしれないのだけど,努力万能的な風潮が,たぶん世の中にあったと思う。社会全体が上昇基調にあるときには,「努力」が幅を利かせがちなのだろう。
 努力すればできる。できないのは努力が足りないからだ。“為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり”である。上杉鷹山である。“精神一到何事か成らざらん”である。

● しかし,努力の相場はだいぶ下がったようだ。というか,等身大に見られるようになった。
 努力ではどうにもならないことがある。というより,努力でどうにかできることは,そもそもどうにかする必要のないことに限られる。
 と言えるほどにおまえは努力をしたことがあるのか,と問われると頭を下げるしかないのだけども。見城徹さんがいう「圧倒的努力」という言葉の前にはひれ伏すしかないと思うんだけども,しかし,努力の相場は下がったような気がする。

● 代わって世の中を支配しているのは「充実」だろう。この二文字言葉が,わがもの顔で社会を闊歩している。
 収入だの学歴だの職業だの,そんなのはどうでもいい。そんなことより生活を充実させることが大切だ。仕事に燃えられる人は仕事に燃えろ。そうじゃない人は,趣味なり何なりプライベートを充実させればいい。そういう考え方。

● 典型的には,人として生まれたからにはその人固有の使命があるとか,社会に生きる以上は社会に貢献する人でなければならない,とされるその言い方。その固有の使命に従うことを充実というっぽい。
 本当だろうか。ぼくにはぼく固有の使命が何かあるんだろうか。自分なりに社会に貢献する方途を探らなければいけないのだろうか。いいじゃないか,充実なんかしてなくたって。

● ま,しかし。何をもって充実とするかは人それぞれだから,努力よりは充実の方がアクセスしやすい。客観的に測定できるものではなく,むしろ客観的測定を排除する向きがある。個人の主観がすべてを決める。
 SNSもリア充自慢で満ちている。自分もそうしている。スカスカでも自分が充実していると思えばそれは充実だ。

● そうであれば,自分を騙す余地ができる。騙す自分と騙される自分。騙しているつもりはない自分と騙されていることに気づかない自分。
 ならば,充実など求めないで,退屈している方がまだマシかもしれない。退屈に強くなることの方が大切なのではないだろうか。
 自分を騙して充実感に浸ることよりも,退屈に強くなる方が難しいだろう。ここは難しい方を選ぶべきではないだろうか。

● 充実を求めるのをやめて,ただ流されるに任せてみるのが賢いのではないか。充実を是とするから,流されるだけの自分に罪悪感を持ってしまうのだ。
 充実というフィクションを捨てることができれば,流されるのもまた幸せであるかもしれない。とまではならなくても,ニュートラルな気持ちでいられるだろう。

 そもそもが,他人を気にしてしまうからいけない。他人がどう生きようと,自分には無関係だ。無関係の人がどう自分を評価しようとどうでもいいし,自他を比較することに意味はない。
 よろしく自分に沈潜するのがよい。ぼくらはできては消える泡のひとつにすぎないのかもしれないけれど,泡としてもせめてもの矜持はそこだろう。そこにしかないと思われる。
 そうして,死ぬときには,つべこべ言わずに死ねばいいのだ。

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