2017年1月31日火曜日

2017.01.30 「登竜」の不思議

● 相方とさくら市氏家の「登竜」で待ち合わせて,夕食をすませて帰る。気になっていた「登竜」のカレーライスを初注文。大盛りだよ。旨かったけど,カレーだけは相方が作るものに軍配をあげるかな。
 しかし,「登竜」の不思議なところは,味以上に,あるいは味以外に,何かがあると思わせるところ。

● 美味しいものを腹一杯食べる幸せというのが,かつて確かにあった。その幸せ,今はどこに行ってしまったのか。昔以上に美味しいものを食べているはずなのに,あまり幸せ感が伴わない。
 ぼくらはひとしなみに豊かになって,飢える心配はなくなった。空腹を感じる時間を作らなくちゃいけないと言われるようになった。

相方が注文した味噌ラーメンを分けてもらって食す
● つまるところはそういうことなんだと思う。食に対する切実な希求はなくなっている。どうせ食べるなら美味しいものを食べたい,ということになっている。
 が,“どうせ食べるなら”という姿勢で,美味しいものにありつけるとも思えない。

● 「登竜」はその幸せ感を味わえるところだと言っておこうか。なぜ,「登竜」ではその幸せ感を味わえるのか。そこのところを考えている。
 店側にだけその理由を求めるのは間違いかもしれない。お客さんにも注目しなければならないのかも。

● 「登竜」には腹っぺらしが来ているようだ。逞しい食欲を見せるお客さんばかりだ。ぼくもそうだけれど。その見事な食べっぷりが「登竜」の店内の雰囲気を作るのに与って力あるかもしれないのだ。
 だが,しかし。“その見事な食べっぷり”を誘発するのは,「登竜」が提供している料理なわけで,やはり「登竜」側に理由はあるのだろうな。

文字どおりの大盛り。ここまでの盛りとは思ってなかった
● 相方は味噌ラーメンを,ぼくはカレーライスを食べながら,昨日とはまるで違うね,お得感があるね,と下品な会話を続けてしまった。
 昨日というのは,宇都宮のベルモールに入っている某店のことなんだけど,某店と「登竜」の違いの最たるものは何かというと,おざなり感の有無ではないかと思う。

● 「登竜」が出す料理にはおざなり感がないのだ。そんなのはあたりまえじゃないかと言われる向きもあるかと存ずるが,毎日毎日,同じ料理を作っていて,おざなり感を出さないというのは,たいしたものではないか。
 実際,そうした店は少ないような気がするぞ。

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