2015年10月3日土曜日

2015.10.03 職業人としては失格だった

● が,就職してからはぼくは明らかに落第生だ。なぜかといえば,仕事を理解する以前に仕事を見切ってしまったからだ。
 今ならこれ以上ないほどに愚かだったとわかるんだけど,当時はその判断を先鋭的というか,人が気づかないことに気づいたと思っていた。
 まったく救いがない。自分が気づくようなことに気づかない人がいるわけがない。そこを越えて行くと,違う風景が見えるのだということに気づかなかった。

● 最初のボタンのかけ違い。気づいたときには修正が効かないほどになっていた。
 したがって,仕事側のぼくに対する評価も低迷を極めた(それだけが理由ではないと思うけど)。

● 最初の7,8年ほどは仕事絡みの勉強もしていたんだけど,これもどうだったのか。仕事は仕事そのものを通じて深めるべきだったかもしれない。本を読んで絡め手から攻めるというのはどうだったか。
 しかし,その勉強もプツンとしなくなった。

● ま,ともかく,仕事に体重をかけることができなくなっていた。酒の付き合いは欠かさなかったけれども,職場の人間関係の構築・維持にもあまり(というか,ほとんど)意を用いなかった。転勤後に前の職場を訪ねることもしたことがない。
 なので,定年退職とともに濡れ落ち葉になる事態は避けられると思う。退職によって失う関係はほぼないから。

● けれど,職業人としてはまったくダメでしょ。したがって,評価もそれなりですよ,と。
 で,ここからが問題なんだけれども,この評価を吹っ切ることがなかなか難しい。吹っ切るためには,仕事ではない別の場所で社会的評価を得られるような成果物を出すことだという思いから逃れがたくなる。
 社会的評価というのは他人からの評価ということだ。他人に評価してもらえなければ,自分の立ち位置に安心することができないという,哀れ惨憺たる有様なわけだ。

● でもね,只今現在を溌剌と生きることが,それに勝る妙薬だってことはわかっている。
 完全燃焼で生きること。不完全燃焼感を残さないで生活すること。置かれている環境にかかわらず,今が楽しいと思えること。それができれば,じつに天下に敵なしといえるだろう。
 人生は目先の連続。ゆえに,目先良ければすべて良し。それは斜にかまえて肩をそびやかしながら思うことではなくて,完全燃焼するという意味合いで捉えてこそ。

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