● 最寄駅にあった信州の観光パンフ。広い信州をコンパクトにまとめてあって,なかなかのできばえ。が,それ以上に惹かれたのが「行かなければ,気づかなかったこと。」というコピー。
何の変哲もない,ありふれた文言のように思われるのだけども。
● 世の中は,行かなければ気づかないことで満ちている。が,その大半をぼくらは見逃さざるを得ない。肉体を持つ以上,移動できる範囲は限られるからだ。
少なくとも,ぼくらは線でしか動けないからだ。
● 動く速度を上げることはできる。空の便が充実して,多くの人が航空機で動けるようになった。結果,世界が狭くなった。
パリやロンドンの光景にはすっかりなじんだと思っている人もいるだろう。すでに見るべきほどのものは見つ,といった織田信長ばりの気分に浸っている人もいるのではないか。
● では,そうした移動速度の驚異的な上昇の恩恵を受けて,ぼくらが見れるものは増えただろうか。
おそらく,否。否とは言わないまでも,増えたとしてもほとんど誤差の範囲内とは言っていいのではないか。それはつまり,点から点への移動になるからだ。
● 飛行機,新幹線,自動車,とそれぞれの速度に応じて,移動中に見えるものは違ってくる。結局,どれほど速く移動したところで,行ってみて気づけることの総量は,さほどに変わらないような気がする。
移動中の光景まで,「行かなければ,気づかなかった」水準で見るためには,歩く速度が一番いいだろう。飛行機を使っての1週間の行程と徒歩での1週間の行程,見えるものの総量はおそらく変わるまい。
● 行かなければ気づけないことは,外国や信州まで視野を広げなくても,もっと近い距離にたくさんあるはずなのだ。たくさんあるどころか,満ちているはずなのだ。
旅,遠きがゆえに尊からず,とはここのところだ。もちろん,遠くに行けば変化の幅が大きくて,そこからしか得られない気づきもあるに違いないのだけれど。
● で,要するに何を言いたいのかというと,移動の手段として自転車はもっと見直されてもいいんじゃないかな,と。趣味としてではなく,移動の手段として。
自転車で移動すれば,徒歩より大きく移動範囲が拡大するけれども,移動中に見失うものは,徒歩から大きく減少することはないような気がするのだ。
● 行かなければ気づけないことを,近場で発見できそうだ。ぼくの場合ではいえば,鹿沼から足尾に抜ける粕尾峠や古峰ヶ原街道の霊気のようなもの。あれは車ではおそらく気づけなかったと思う。烏山の解石神社や木戸不動尊。これも自転車なればこそ,入って行けた。
身体全体を外界においたまま移動できるところが味噌。それができるのは徒歩と自転車だけだ。そのことによって気づけるものの多さを思ってみる。
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