2018年7月31日火曜日

2018.07.31 山本彩がNMB48を卒業するらしい

● AKBに残っていても,山本彩は絶対エース。圧倒的にクレバー。女子しかいない世界で,状況を見て自分を殺せる女子はそうそういない。若干25歳にして人の三生分くらいは生きたのではないか。
 歌の世界を離れても,何をやっても,のしあがっていける感じ。そのための努力を惜しまないだろうから。

● といっても,ぼくはテレビは一切見なくなったので,NMB48について知るところはまったくない。歌も聴いたことはない。
 山本彩についても,知るところは少ない。AKBのときに唯一センターを取った「365日の紙飛行機」をYouTubeで聴く(見る)くらいのものだ。
 あとは,幻冬舎の月刊誌『GOETHE 2016年1月号』のグラビア記事を読んだことがある。たぶん,『GOETHE』の鉄板の特集テーマであろう秘書特集。そこに当時22歳の山本彩が登場。『GOETHE』の男性読者の妄想を掻きたてたのだった。なにせ,そこで山本彩が放つエロスは圧倒的だったのだ。

● あ,あと,Twitterをフォローしていたこともある。芸能人らしからぬ芸能人という印象を持っていた。
 では芸能人らしい芸能人とはいかなるものかというと,わりと過酷な環境で育って,世間に容れられない何ものかを抱えていて,つまりはまっとうには生きられない人たちというあたりなんですけどね。その点で,ヤクザと芸能人はわりと近しいのではないかと思っていた。
 山本彩はそういう芸能界に行く必要はなかった人のように思えたのだ。

● この世界でも(この世界こそ)次々に選手は交替していく。同じ位置どりのまま居続けることはできない。場所を変えていかなければならない。次の場所を正しく見つけなければならない。
 そのためには,頭がというより,身体がクレバーじゃないと。で,山本彩はそれができる人なんじゃないかと。

2018年7月30日月曜日

2018.07.30 「登竜」の醤油ラーメン

● 氏家の「登竜」で久しぶりの醤油ラーメン。名前のとおり醤油がクッキリとわかる。素朴というか,不要な洗練を拒むというか。
 定食を注文すると,この醤油ラーメンのミニサイズが汁物がわりに付いてくる。ので,「登竜」に来るお客さんの多く(ほぼ全員)は醤油ラーメンを食べているはずだけれども,単品で醤油ラーメンを注文する人はそんなにいない印象。

● 巷の醤油ラーメンの複雑な味に慣れてしまうと,「登竜」のベーシックには物足りなくなるのかもしれない。「登竜」には醤油ラーメン以外に食べたいメニューがたくさんあるしね。

● 最初に2枚入っているシャーシューを食べた。余計なことをしていないチャーシューだ。しみじみ味わってから麺に取りかかる。
 ぼくの舌は,多品種を少量ずつではなく,1品を多量に食べるという,貧乏人仕様なのだけど,さすがに特盛りはそろそろ無理かもしれない。途中で舌が飽きたと言いだした。
 いい年になっても胃と舌をコントロールすることができない。少ぉし情けないと思う。

● 左の写真は「登竜」に貼ってあったポップ。豚の角煮がメニューに加わった。「食べたっていいじゃない ブタなんだもの」というんだけど。
 これさ,「あんたブタでしょ,ブタなんだからどんどん食べなさいよ」とお客に言ってる? そうじゃないよね。ブタなんだから食べてもいいんだよ,という意味だよね。ね。

● 生ビールフェアをやっていて,けっこうお得な金額。相方が食指を動かした。目先の得に徹底的に弱いやつ。オレが運転するから飲んでもいいよ,と言ったんだけど,思いとどまった。
 彼女,アルコールは基本的に飲めないタイプなんだけど,飲める人への憧れがある(本人談)。おそらく,その場合の酒はシャンパンとワインをイメージしているのだろう。夏のビールもかろうじて彼女が想定しているシーンに入るらしい。

2018年7月29日日曜日

2018.07.29 「行かなければ,気づかなかったこと。」

● 最寄駅にあった信州の観光パンフ。広い信州をコンパクトにまとめてあって,なかなかのできばえ。が,それ以上に惹かれたのが「行かなければ,気づかなかったこと。」というコピー。
 何の変哲もない,ありふれた文言のように思われるのだけども。

● 世の中は,行かなければ気づかないことで満ちている。が,その大半をぼくらは見逃さざるを得ない。肉体を持つ以上,移動できる範囲は限られるからだ。
 少なくとも,ぼくらは線でしか動けないからだ。

● 動く速度を上げることはできる。空の便が充実して,多くの人が航空機で動けるようになった。結果,世界が狭くなった。
 パリやロンドンの光景にはすっかりなじんだと思っている人もいるだろう。すでに見るべきほどのものは見つ,といった織田信長ばりの気分に浸っている人もいるのではないか。

● では,そうした移動速度の驚異的な上昇の恩恵を受けて,ぼくらが見れるものは増えただろうか。
 おそらく,否。否とは言わないまでも,増えたとしてもほとんど誤差の範囲内とは言っていいのではないか。それはつまり,点から点への移動になるからだ。

● 飛行機,新幹線,自動車,とそれぞれの速度に応じて,移動中に見えるものは違ってくる。結局,どれほど速く移動したところで,行ってみて気づけることの総量は,さほどに変わらないような気がする。
 移動中の光景まで,「行かなければ,気づかなかった」水準で見るためには,歩く速度が一番いいだろう。飛行機を使っての1週間の行程と徒歩での1週間の行程,見えるものの総量はおそらく変わるまい。

● 行かなければ気づけないことは,外国や信州まで視野を広げなくても,もっと近い距離にたくさんあるはずなのだ。たくさんあるどころか,満ちているはずなのだ。
 旅,遠きがゆえに尊からず,とはここのところだ。もちろん,遠くに行けば変化の幅が大きくて,そこからしか得られない気づきもあるに違いないのだけれど。

● で,要するに何を言いたいのかというと,移動の手段として自転車はもっと見直されてもいいんじゃないかな,と。趣味としてではなく,移動の手段として。
 自転車で移動すれば,徒歩より大きく移動範囲が拡大するけれども,移動中に見失うものは,徒歩から大きく減少することはないような気がするのだ。

● 行かなければ気づけないことを,近場で発見できそうだ。ぼくの場合ではいえば,鹿沼から足尾に抜ける粕尾峠や古峰ヶ原街道の霊気のようなもの。あれは車ではおそらく気づけなかったと思う。烏山の解石神社や木戸不動尊。これも自転車なればこそ,入って行けた。
 身体全体を外界においたまま移動できるところが味噌。それができるのは徒歩と自転車だけだ。そのことによって気づけるものの多さを思ってみる。

2018.07.29 「Google home」って・・・・・・

● ヨドバシ宇都宮店でもらってきた。巷で話題のスマートスピーカー「Google home」の公式ガイドブック。
 わが家にはスマート家電なんてのもないし,管理してもらうほどのタスクもないしで,すぐにどうこうということはない。スマホの「Googleアシスタント」も使っていない。
 けれど,基本的にこの流れなんでしょうかねぇ。誰もが執事を雇えるという。

● 生身の執事がいたらどうだろう。彼にやってもらう仕事を抱えている人がどれだけいるんだろう。
 大方の日本人は人を使うことに慣れていないから(したがって,香港のペニンシュラやシンガポールのラッフルズのようなホテルに泊まると,かえってホテルマンから軽く見られてしまうことがあるのじゃないかと思う),生身の執事なんかいたらかえって気詰まりだろう。

● が,AIならば,そういう気兼ねは不要だ。「Google home」はその初歩的な一歩になるのかもしれないけどねぇ。
 どうなんだろうなぁ。おそらくだけど,「Google home」に話しかけて音楽をかけてもらうよりは,自分で機械のスイッチを押す方を多くの人は選ぶんじゃないかと思う。その方が安心感があるというか,音楽を聴くという体勢を作りやすいというか。
 ただね,そういう環境で年月を過ごしてしまったぼくらはそうだけれども,これからの人たちはこういうスタイルを抵抗なく受け入れるのかもしれない。基本的には慣れの問題だもんね。

● かつては,パソコンを使えば秘書を3人持ったようなものだ,と言われもしたものだけどね。実際にそうなったかというと,逆にかえって忙しくなった。
 秘書を3人も持っているような人は,そもそも忙しいものかもしれないけれど。

● 理想は,藤子不二雄「パーマン」のコピーロボットなんだけどね。究極のインテリジェント・マシーンだよねぇ。できないかねぇ,ああいうの。

2018.07.29 Facebookをやめて丸4日

● Facebookをやめて丸4日経過。いわゆるFB疲れでやめたわけではないので,多少の禁断症状が出るかと思ったけども,そんなものはなかった。
 FBを懐かしむこともない。スッキリちゃんりん。

● スマホ中毒にさせるのは,ゲームとSNSらしい。ぼくはゲームとは無縁なのだけども,ムダにスマホやパソコンの画面を見ている時間があった。
 あったというか,その時間が長すぎた。のべつ見てしまうのだ。何とかしなければとずっと思っていた。

● その初手がFBをやめてみることだった。いわゆる放置はできない。放置が効果的なのは,それこそFB疲れか,FBに興味を失った場合に限られる。
 ぼくはそうではなかった。やめると決めても,そのままにしておけば3日の後には舞い戻ってしまうことは明らかだ。

● ので,FBに退会宣言(?)を投稿し,絶対に戻れないように自ら外堀を埋めて,自分のFBアカウントを削除したのだ。
 だから,やめたあとはそれなりの喪失感があるのかと思っていた。ところが,それがない。

● シンプルライフという言葉がある。最近では断捨離やミニマリズムという言葉も。その対象はモノだけではないだろう。習慣や人間関係も見直しの対象だ。
 実際のところは,生きている限りは,シンプルライフは絵餅であり続ける。その絵餅を理想ともいう。理想は現実にならないから理想なのだ。シンプルライフもそういうもののひとつだ。
 が,見直す作業は続けた方がいいのだろう。掃除と同じだ。どうせまた散らかるのだからと掃除をやめてしまうと,どうなるか。

● FBをやめるという掃除は,今のところ,わずかながら効果があるようだ。のべつスマホを見るという状況からはやや脱却できたように思える。
 それで足りなければTwitterもやめるつもりなのだが,目下のところ,その必要は感じていない。

● というわけで,時喰虫のひとつを退治できたと思う。FBを時喰虫と認識するということは,かける時間ほどFBに意義を感じていなかったというわけか。そうでもあるが,そうではない。
 要は,のべつスマホをチェックしてしまうのが時喰虫の所以なのだ。これは必ずしもFBの罪ではない。主には使い手の問題だ。ぼくは上手く使えなかったので,FBから離れることにしたというに過ぎない。

● ただし,“友だち”はぼく亡き後も,変わらずにFBを楽しんでいるだろうな。自分が死んだ後も,世界は昨日と変わらずに淡々と続いていく。
 あと,見直すべき習慣は晩酌だね。これで帰宅後の夜の時間をだいぶ(ほとんど)失ってきた。晩酌を捨てるというのが,次なる課題。これはFBをやめるより難しいかもしれない。

2018.07.29 美人というものは・・・・・・

● hpの少し前のネット広告に出ていたモデルさんというか女優さん。小雪さんに似てますな。淑やかを絵に描いたような印象。
 hpの広告では,既婚で子供がひとりいて,かつてやっていたバンド活動をやめて久しく,それで鬱屈を溜めていたという設定だったと記憶しているが。

● その彼女,実際には,活発で陽性でオキャンといってもいいような人なんだと思う。美人って,動と静でいうなら,動に属する人がほとんどのような気がするよ。
 スポーツが好きだったり,車の運転が好きだったり,キャッキャとよく笑う人だったり。基本的に細かいことにこだわらない人が多いような印象(って,半ば以上は想像で申しあげている)。

● 深窓の令嬢的なイメージは,男が勝手に作りあげたものなのだろうね。いねーわ,そんなもん。仮にいたとしても,未就学児までだろう。
 女は総じて男より生命力が強いもの。そんな女性が自分の部屋にこもりきりで過ごしているのは,病気以外に考えられない。

● 対男性ということでいえば,美人の難しさはここにある。男性が美人に対して勝手に描いてしまうイメージと現実とのギャップ。
 けれども,ここは正誤は明らかだ。“勝手に”描いている方が誤っているに決まっている。

2018年7月28日土曜日

2018.07.28 Viberは使えるのか

● 楽天モバイルのデータ通信専用SIMで,通話はViber-outを使用。自分からかけることはまずないから,通話SIMは不要と判断。
 ところが,このViber,かかってきた電話を受信できなくなっていたようなのだ。自宅の固定電話からかけてみて,そのことを確認した。すぐに切れてしまうのだ。

● やっと原因が判明した。設定→データ使用量→モバイルデータ。そこをOFFにしたら受信できるようになった。
 ひと月ほど前,アンテナが4本立っているのにつながらない状態が発生した。SIMを外して再挿入したら解決したんだけど,その前にそちこちイジった。そのときにONにしたんですな。そのままになってた。通話以外には支障がなかったから気にもしていなかった。ともかく良かった。

● って,これをOFFにすると,Wi-Fiじゃないと通信ができなくなるわけですよ。とすると,イジったときにONにしたというのは記憶違いで,最初からONだったはずだなぁ。
 で,ONに戻しても,やはりViberは受信するんでした。結局,何が原因だったのかはわからない。とにかく受信するようになったよ,と。

● もうひとつ。こちらからかけると番号が非通知になっていると相方に言われた。これは仕様なのかね。
 実際のところ,相方はViberを入れてない。今回はちょっと協力を願っただけだ。もっぱらLINE電話で通話する。
 相方以外に,ぼくから電話をかけることはほぼまったくない。非通知だろうが何だろうが,どうでもいいっちゃどうでもいいんだが。

2018.07.28 台風12号で演奏会に行けなかった件

● 台風12号。警報が出れば招集がかかることになっている。現在は注意報だが,間違いなく警報も出るだろう。
 ので,今日のこの演奏会は聴けないことになる。チケット代は大した額じゃない。が,この楽団の演奏が聴けなくなるとは,ぼく的にダメージが大きい。よりによって何で今日来るんだよ,台風様よ。

● ずっと気象庁のサイトを開いていた。夜になったのだが,まだ警報は出ていない。今日はこのままかもしれない。
 だったら,この演奏会に行ってればよかったかといえば,いつ警報に変わるか気が気じゃなくて,とても落ち着いて聴いていられなかったろうから,1日家で待機していて正解だったのだ。というか,それしかないわけですよね。

● ぼくのはコンサートに行けなかったくらいの話だけれども,もっと大きなあるいは重要な予定をキャンセルせざるを得なかった人もいたことだろう。それも,けっこうな数。
 大人とはそういうもの。それが社会に対する責任だなどと大仰なことは考えないけれども,大人ってそういうものだよね。

● 早い話が,航空機を含む公共交通機関に勤務する人はそれどころじゃないだろう。消防や警察,医療関係者も同様だ。
 何があっても勤務地に向かわなければならない。大変だろうと推測するが,それが彼らの矜恃であるかもしれない。

● しかし,週末の台風はけっこう迷惑だな。だいたい,何が悲しくてこんなコースを辿るんだよ。とっとと東に逸れて行けよ。

2018年7月27日金曜日

2018.07.27 またカレーを作ってみた

● 数週間前に作った夏野菜のカレーが,相方に評判が良かったので,また作ってみた。といっても,ぼくが作るのはカレー・ルーが入った野菜の煮込みだ。
 今回は,ジャガイモ,人参,玉ねぎと普通の野菜で。

● とにかく市販のルーがよくできているので,ルーにお任せする。余計なことはしない。
 日本のカレーはルーを食べるものだと心得ている。なので,ルーを多めに入れる。ちょっと入れ過ぎかと思うくらい。

● 当然,焦げやすくなるから,そこだけ気をつける。あとは,野菜(特にジャガイモ)はゴロンとするように,刻み過ぎないこと。玉ねぎだけはこの限りにあらず。
 男の料理とはそんなものでよろしいのだ。

● 相方に評判が良かったというのも説明が必要だろう。おそらく,ダンナがたまに作るものは何にせよ歓迎なのだと思う。自分は休めるわけだから。週に何日かは作ってほしいというわけだろうね。
 なので,タマに作ったものは,何はともあれ褒めておけというわけなのだろう。

● こんなもので良ければいつでも作るのだけど,毎回カレーというわけにはいかないしね。涼しくなったら,もうひとつのレパートリーであるモツ煮込みを作ろうかと思っているんだけど,これはあまり相方は好まないだろう。
 さて,何て言うだろうか。もういいよ,と言うかな。

2018年7月25日水曜日

2018.07.25 Facebookを退会

● 自分のログをネットに残しておいて,時々参照するだけなら,ブログとTwitterで充分だ。FBは要らない。
 Twitterにもグループチャット機能が追加されている(上限20人)。となると,FBでやっていることはそっくりTwitterでもできる。大半のFBユーザーにとってそうだろう。
 Twitterには140字の壁があるわけだが(その壁がいいのだという意見,多数),140字をいくつも連ねてツイートすることができるのが基本フォームになった。壁が事実上消えたともいえる。

● それなのにFBをやめないでいるのは,コメントのやりとりや「いいね!」が付くことに快感を感じているからだ。これは間違いない。
 この快感に抗することはかなり難しい。コミュニケーション欲というのは,人のかなり奥深いところにあるもののようだ。

● “おぼしき事言はぬは腹ふくるるわざ”であって,ぼくらパンピーはSNSでだいぶ腹がふくれないようになったことだろう。
 その代わり,ネットには雑音が溢れることになった。でも,雑音を発し,雑音を受けながら生活していく権利は認められるべきだよね。

● 第一,リアルのコミュニケーションがそうなのだ。雑音に近いどうでもいいことをやりとりするから,コミュニケーションがコミュニケーションたり得ているのだ。どうでもいいことのやりとりが快を生む。
 どうでもいいことではないことがらをやりとりするのは,多少なりとも緊張感を随伴する。場合によっては胃が痛くなるような思いもする。

● しかも,じつは雑談こそが高度に脳を機能させるのだという。頭がいい人とは,誰とでも雑談できる人のことをいうのだろう。
 ただし,これはタイムラグが生じないリアルの雑談,ライヴとしての雑談の場合であって,FBのコメントのやりとりまでそれに含めてはいけないだろうね。

● ともかく,どうでもいいことのやりとりは楽しいものだ。FBにはどうでもいいこと以外はあげるべきではないと思っている。多少ともシリアスなものは自分の中に秘めるべきであって,そういうものまでFBに垂れ流してはいけない。
 しかし,物事には限度というものがあるらしい。FBではたやすくその限度を超えてしまうきらいがあるようだ。どうでもいいこと以外はFBにあげてはいけないと思っているのに,一方でどうでもいいことの洪水に少し悲鳴をあげたくなってきた。自分に関していえば,どうでもいいことを発しすぎる。

● FBには様々な機能があって,自分はその可能性をほとんど引きだせていないのだが,引きだすには引きだす側に力量が要る。自分にはその力量がまるでない。
 力量がないのは別に悪いことではない。100メートルを9秒台で走れないことは悪いことではない。それと同じだ。
 が,何度目かの“FBやめようか症候群”が来ている。今の使い方で使っているのでは,単に時間のムダだと思えてきた。

● なんだかんだ言って,FBは面白くてですね。それが仇になって時喰虫なんですよ。
 SNSは時間を決めて使うべしという,たったそれだけのことがなかなかできないんですね。

● 長々と述べてきたけれど,以上はそれなりにFBに配慮したものだ。少し本音をいうと,次のようなことがある。
 ネットでつながるのもいいんだけど,そのつながり方は行きずり的なものでいい。その方がネット的。
 となると,Twitterのゆるさが望ましい。FBは囲い込む感じがあった。リアル類似な閉塞感のようなもの。

● Twitterにはそれぞれが向いた方を向いて,勝手に何かやっている感がある。そこが大事なところだ。
 その過程で,反発を含む交流が生まれることもあるのだが,交流とか絆とかつながりが第一義になってしまうと,概してつまらなくなる。人の投稿なんか読まない,自分で好きなことを書いて発信するためだけに使っている,という人がもっと増えると,かえって面白くなるのではないかと思う。

● FBはその交流が主目的のSNSだから,放っておくとつまらなくなりがちなのだ。“さぁ皆さんご一緒に”的な,〇〇会的な,求心力が顔を覗かせることがあるような気がする(考えすぎかもしれないんだけど)。求心力は多少なりとも強制の色を含むものだ。
 交流は,多様性を生むよりも多様性を制限する方向に作用することが多い。拡散ではなく収斂に向かう。そんなものはサラリーマンなら毎日体験していることだろう。FBから若い人が逃げだし,中高年の巣窟になるのも納得できる。

● あと,FBにはネットリテラシーの最低限に到達できていないユーザーがわりといる。診断アプリの占いの結果を嬉々として投稿するのがその代表だけれども,中にはそういうアプリ広告に「いいね!」を付けたりシェアする大バカまでいる。中高年って,ほんとどうしようもない。そんなのが「友だち」にいると,危なくてしょうがない。
 日本語を読めない人もいる。この投稿になぜこういうコメントが返ってくるのかと思うことが何度もあった。たぶん,読めていないのだ。部分に引っかかって,全体を掴めていない。
 そういうのにつきあわされるのは精神衛生に良くないのだが,FBではそれを余儀なくされることがある。

● やめるのであれば退路を断つのがよい。FBが公式に表明している退会手続きでは,外枠が消えるだけで中身は見えない形で残ってしまうらしい(利用停止になるだけ)。
 完全退会のやり方がネットにいくつもあがっているので,それにしたがって退会手続きを進めようと思う。

● というわけで,突然ですが,FBをやめることにしました。今までお付き合いいただきましてありがとうございました。
 この期に及んで何なのですが,Twitterにも出没しておりますので,よほどお暇な折にでも(そんな折はないと思いますが)覗いてやってください。

2018年7月24日火曜日

2018.07.24 酷暑の終わり

● 右は今日の下野新聞。とにかく,この世のものとは思えぬ猛暑,酷暑が連日続いている。昨日は酷暑の記録ずくめだったらしい。
 40度というのは,じつにもって破天荒だ。ぬるいサウナに入っているようなものだ。しかも,出ることのできないサウナ。本物のサウナは気持ちのいいものだが,天然のサウナじゃそうはいかない。

● しかし,この酷暑も昨日がピークらしい。今日以降も暑さはまだまだ続くけれども,ピークは過ぎた。これほどの酷暑がこのあと,再びやってくることはあるまいから,やれやれほっとひと息とまではいかなくても,半息くらいはつけるだろう。
 暑い暑いと言っているうちに,夏は半分過ぎたのだ。日もだいぶ詰まってきた。

● 8月も半ばを過ぎると,秋の気配を孕んでくる。暑さに隙ができてくる。何もしなくても空は高くなる。少し,酷暑が懐かしくなってくる。
 そうして,いやおうもなく季節は廻っていく。冬が来て,そろそろスタッドに履き替えた方がいいだろうかと悩む。首都圏の大雪がニュースになる。そして,桜の季節がやってくる。

● 今年は5月がなかった。暑い5月だった。風薫る5月はどこに行ったのか。日本には夏と冬しかなくなったと言う人もいた。
 しかし,5月の暑さを記憶にとどめている人はそんなに多くはないのではないか。日は廻り,目の前の事象は次々に変わっていく。それらに対処するには過ぎた5月の気候などかまってはいられない。必要があって,人は過ぎた季節を忘れていくのだ。

● 忘れても季節はきちんと廻ってくる。廻ってきた新しい季節が,ときには過ぎ去った過去のアレやコレを呼び覚ましてくれるだろう。
 過去(の自分)とのつきあいはそれだけで充分だ。

2018年7月22日日曜日

2018.07.22 吉野家でのゲーム

● 宇都宮駅構内の「料亭よしの」。牛丼並と生卵を注文。他を注文しないのは,これが鉄板すぎるのと,爺にありがちな保守性による。

● 勘定は440円なんだけど,冷水を何杯でも飲めるので,ペットボトルの水を買うお金が浮いたと計算する(セコい)。
 ので,330円。超絶,安い。

● 入店,着座してから,食べ終えて勘定をすませ,店を出るまでの時間を5分以内にしたいんだけど,実行できたことはない。
 店側の対応もあるし(特に勘定のとき),こちら側がグスグスしてしまうこともある。今日は8分かかってしまった。

● もちろん,真似をしていただく必要は寸毫もないんですけどね。ゆっくりされたらよいと思いますよ。

● でもねぇ,吉野家って旨いですよねぇ。しみじみ旨いと思うんですよ。牛丼の並は380円ですよ。日本って物価の安い国になったんだなぁと感じるんですよね。
 アメリカだったら,この牛丼はハリウッドのセレブが食べるものだと聞いたことがあるんですけどね。ウソかホントかは知りませんが。

2018年7月21日土曜日

2018.07.21 悲劇的

● ぼくのオーディオ設備は非常に貧弱だ。貧弱というより,ないといった方がいい。ノートパソコンにつないでいる外付けスピーカをオーディオとは言わないだろう。
 ほかには,ウォークマンを持っているだけだ。

● それで困っているわけでもない。つまり,家で気を入れて音楽を聴くということをしていないのだ。音楽は“ながら”で聴いている。
 そのためにウォークマンは便利なものだ。プレイリストを作らなければと思いながら,ずっと手をつけないでいた。
 ら。フォルダ表示ができることに気がついた(→あなた,バカですか?)。ウォークマンに直接,楽曲ファイルをコピーしているんだけども,そのフォルダを表示できるのだった。

● iTunesでCDをリッピングした楽曲データがクラシックを中心に200GBほどある。作曲家ごとにフォルダを作っている。たとえばベートーヴェンならベートーヴェン。“ベートーヴェン”フォルダの中に,交響曲,弦楽四重奏曲などのフォルダを作って,そのなかに曲ごとにフォルダに入れて格納していく。
 ので,そのフォルダを表示できるなら,あらためてプレイリストなど作る必要はなかったのだ。

● さすがはウォークマン,使えるやっちゃなぁと感心した。っていうか,ぼくがあまりにドンくさかっただけなのだが。
 ともかく,200GBのうちの一部をウォークマンに入れて聴いているわけだ。とりあえず,ピアソラの楽曲を加えたくなった。

● ので,PCにウォークマンをつないで,ピアソラ楽曲をウォークマンにコピーした。
 のだが。あとでウォークマンを確認してみると,ピアソラのフォルダはあるのだけれども,フォルダ内に何もないと表示されるのだった。中身が消えてしまった。
 最初からコピーされなかったとは思いにくい。コピーするのに,ほどよい時間がかかったんだから。

● そのときは,それだけのこと。
 で,今日の話だ。6時前に起床した。その作業をやりなおした。せっかくだからピアソラだけじゃなく,全面的に見直してウォークマンの中身を整えよう。で,午前中をその作業に費やした。

● 今度はウォークマンをつなぐのじゃなくて,ウォークマンからmicroSDをはずして,PCに装着して作業してみることにした。
 PCが旧式のこともあるんだと思うんだけど,microSDにコピー&ペーストするのに時間がかかる。やっとのこと,その作業を終えて,microSDをウォークマンに戻すと,ウォークマンが無慈悲な警告を発した。このカードは本機では取扱いできまぜん,という。
 いやいや,ついこの間までこれを使ってたんだよ。

● ウォークマンも今は販売されていない旧型。認識できるのは64GBまでなのだろう。このmicroSDは128GBのカードだ。
 それが原因かと思い直して(たぶん,そうじゃないと思うんだけどね),64GBのカードで同じことをやった。上手くいきますようにと祈るような気分でやりましたよ。

● 終わった。終わったところで相方と買物にでかけた。
 夜に帰宅。帰宅してパソコンで確認したら,コピーしたものの一部が消えていた。むむぅ,嫌な予感がするねぇ。ともかくmicroSDをPCからはずして,ウォークマンに装着。
 したら。すべて消えた。跡形もなく。ウォークマンでフォルダを表示すると,そこには何もありませんと出てしまう。ないものを再生できるわけもなく。

● おそらくmicroSDの問題かと思われるんだけど,2枚続けてハズレにあたるとは。
 この途方もない虚脱感は何なのだ。これじゃウォークマンはただのアルミの箱じゃないか。今日の1日をどうしてくれるのだ。

2018.07.21 「果琳」のジュース

● 相方と宇都宮の福田屋に。タイムセールで半額になった惣菜をあさってこようという,上品とはほど遠い動機による。そんなことをしている間は,永遠に貧乏なままなんだけどね。
 ともあれ。福田屋に行ったときは,「果琳」のジュースを飲むのが楽しみ。今回はスイカジュースのLサイズ。500円。

● これを銀座のクラブで飲んだらいくら取られるだろうか。って,どうしてここで銀座のクラブが出てくるんだ?

● ワタクシが子供の時分には,“渡辺のジュースの素”というのがありましてなぁ。“渡辺の ジュースの素です もう一杯”というテレビのCMもよく憶えておりますよ。
 あれは何というのか,バスクリンの飲料版というのか。今から考えると,とんでもないシロモノだったでありましょうなぁ。それを水で溶いてゴクゴクと飲んでおったわけですよ。あの頃のワタシラの食生活というのは,今の豚以下かもしれなかったですなぁ。

● それに比べたらですよ,「果琳」でたとえばレモグレを注文するとですよ,きれいなお嬢さんが,眼の前でレモンとグレープフルーツを絞って,ジュースをこしらえてくれるわけですよ。
 “渡辺のジュースの素”の時代に育った者としては,ありえない贅沢だと思うわけですな。
 ということで,銀座のクラブにつながるわけね。ありえない贅沢。つながらない?

● まぁ,でもね,スーパーで売ってる果汁100%ジュースというのは濃縮還元が大半だから,コクも風味も飛んでしまっている。紛うかたなきフレッシュジュースっていうのは,銀座千疋屋とか新宿高野といったとんでもなく敷居の高いところに行くか,ホテルのバーで特別に作ってもらうしかないものだったような。
 それが数百円で飲めるようになったんだから(千疋屋と比べちゃいけないんだろけど),ありがたいことです。ま,場所代が入ってないからね。「果琳」はテイクアウト専用だから。

2018.07.21 「登竜」でレバニラ炒め定食

● 氏家「登竜」。庶民の逞しい食欲を満たすところ。土曜日だし,混む前にと18時前に行った。幸い,待たずに座れた。
 その「登竜」でレバニラ炒め定食を注文。レバニラ炒めを肴にしてハイボールを飲めれば,さらにいいのだが,白いご飯もいいものだよね。

● これを食べられるということは,夏バテしてないってこと。レバニラを食べてれば夏バテしないってことではないと思いますな。レバニラを食べられる状態であれば大丈夫ということは言えてもね。
 つまり,夏バテしちゃってたら打つ手はないよ,と。涼しいところで身体を休めるしかありませんわな。その際,無理に食べようとしないことが最も肝要かと存じまする。無理に食べては内臓が休まらない。

● 店の前に大勢に人がたむろしてて,何があったんだと思ったんだけど,どうも地元のさくら清修高校の野球部の部員と保護者が集まっていたらしい。
 高校野球の県大会の最中だ。ひょっとして,今日試合があって,その慰労をしようということなのか。頑張った部員に腹一杯食べさせようということか。

● 氏家ではお祭りもあったようで,駅前の道路は歩行者天国になっていた。じつは,ぼくの地元でも今日が祭りだったのだが(ただし,お祭りする神様はいない),祭りは時期が集中する。
 集中しても困ることはない。祭りは見るものではなく参加するものだからだ。

● それゆえ,祭りを観光資源と捉えるのは間違っていると思う。むしろ,神聖なものなのだから,部外者は立入禁止にするくらいでいいのでは。
 ところが,ぼくの地元でもそうなんだけど,お祭りすべき神様がいないのに,祭りの真似事をしたがるやつがいるんだな。人は集まるのが好きだから,そうした真似事にもけっこう集まってくるんだな。

2018.07.21 Facebook雑感3

● Excelでできることを100とすると,自分が使っていのはそのうちの4か5,などとよく言い合っていた。ひょっとすると,1か2かもしれない。
 たいていの人はExcelでマクロを組むこともやっていないだろう。なぜかと問えば,自分には必要ないからという答えが返ってくるに違いない。
 が,もしマクロを組んで処理することを覚えたら,何でこんな便利なものを今まで使わないでいたのか,と後悔するかもしれない。

● 必要あるかないかは,じつは自分でも意外にわからない。そのうえ,対象物をよく理解しないままで判断している。
 自分には必要ない(だから興味を持たない)というのは,たんなるズボラかもしれない。

● もっとも,MicrosoftでExcel開発を担当している人間でも,Excelのすべての機能を知っている人はいないと言われる(本当かどうかは知らない)。モジュールに分けてチームを作っているから,他のモジュールまで完全にわかっている人はいないのだ,と。

● Facebookでもホーム画面の左側に表示される項目を見ると,とんでもなく多様な使い方ができるのだと思われる。募金を集めることまでできるのだ(集まるかどうかは別にして)。
 けれども,ぼくを含めてほとんどの人は,タイムラインに何ごとかを書いてアップする,友達のタイムラインを読んで「いいね!」やコメントを付けるところで終わっているだろう。あとは,Messengerで連絡を取り合といったところ。
 何でも入れられる巨大な箱に石ころを1個か2個入れて,コロコロさせているのが,大方の使い方だろう。もちろん,ぼくもそうで,なぜかといえばそれ以上は自分には必要ないから。

● しかし,少数ながら,Facebookのこれだけの機能をうまく使って何かできないかと考える人もいるに違いない。
 実際に“何か”を始めている人もいるだろう。

● しかし,Facebookには問題がある。
 Facebookを使っていると,自分の裸を見られているんじゃないかと思うことがあるんだよね。誰にって,Facebook社に。
 何を投稿したかをすべてフォローして,その人が興味を持ちそうな広告を出してくる。Facebook社が追跡しているのはFacebookの投稿だけではないようなんだよね。Twitterやブログや,その他,ぼくがネットに発したものすべてを把握しているようなんだよなぁ(Facebookに限ったことではないけれど)。

● それじゃあ目くらましの投稿をしてやろうかと思って,その種の球を投げてみると,それは目くらましだと見通されているような。
 感心するほどだ。なかなかやるなぁ,Facebook。

● ネットを多様に使っている人は,それらをすべてFacebookに集約できないかと考えたことがあるのではないか。が,それはやってはいけないことだ。Facebookがいつまで存在するかわからないからだ。
 パソコンのソフトはどれが一つしか使ってはいけないと言われたら,たいていの人はExcelを残すと思う。パッケージソフトならそれでいいのだが,SNSはその一つが残るとは限らない危うさがある。

● ほんとにさぁ,このままではいけないよねぇ。何とか策を考えないと。
 抱え込むだけ抱え込んで,他には渡さん的な強欲はダメだよ。ユーザーが“公開”設定で上げているものは,Google検索を許してやりなよ。
 他にもいろいろありそうだぞ。直した方がいいところ。

● だって,このままだと年寄りだけのサークルになってしまうぞ。ほんとに年寄りだけになったら,年寄りも離れていくぞ。
 女性は男性を呼び寄せるが,その逆はない。若者は年寄りを呼び寄せるが,その逆はない。
 それゆえ,若い女性のユーザーを増やすのは焦眉の急だと思うのだが,Facebook社がその努力をしているとは思えない。

● 弊社にはInstagramもございますから。若い方々にはそちらを中心にご利用いただいておりますから。
 と言ってみたって,Instagramにも中高年(の特に女性)が怒涛の勢いでなだれ込んでいるようだし,Facebookを逃げだした若者がそっくりInstagramに移っているわけでもなさそうだ。
 このままではInstagramの隆盛だっていつまで続くか。

2018年7月19日木曜日

2018.07.19 ちょっとした疑問,2つ

● ちょっとした疑問を頭の中に飼っている。いや,どうでもいいことなんですが。
 何かっていうと,ひとつは,冷蔵庫が氷を作る仕組みがわからなくてね。昔のやつはわかるんですよ。冷凍室に製氷皿を置いといたんだから。

● 今のは,水を冷凍室には入れませんよねぇ。冷蔵室に入れる。それなのに,氷が冷凍室に落ちてくる。氷の大きさが通過できる穴なんかありませんよね。
 おそらく,水が細い管を通ってくるときに下から冷気をあてて氷にして,それがある程度の大きさになると,引力に引かれてポトンと下に落ちるという仕組みなのかなと思うんだけど。

● こういう単純な疑問は,Google先生に訊けば一発回答だろうけどね。もう少し,わからないままにしておこうと思います。
 知っていても教えないでください。

● 2つめは,ハイボールのことなんですよ。
 ハイボールってウィスキーを炭酸水で割るだけじゃないですか。それなのに旨い店とそうでもない店がある。その理由は何なんだろうっていう疑問。

● ウィスキーまで自家製だなんて店はありませんよねぇ。炭酸水を自分ちで作ってるからですよって店もありそうにない。
 なのに,味に違いが出るのは何でなんだろ。これはGoogle先生に訊いてもわからなそうだ。

● 氷をグラスに入れてウィスキーを注ぐ。その状態でマドラーでもって右回しで7回,左回しで7回かき混ぜるんですよ。そうしてから炭酸水を注ぐ。そうすると旨くなるんです。
 そういうことを,とあるホテルのバーで聞いたことがあるんだけど。そう言われるとそうなのかとも思うんだけどねぇ。

● ハイボールはほとんど毎晩,自宅で自分で作って飲んでいる。聞いたとおりにやることもあるし,そうじゃないこともある。自分で作ったものは,正直,どちらも同じに思える。

2018年7月17日火曜日

2018.07.17 猛暑は悪いことばかりではないと言っていられる余裕

● 右は今日)の下野新聞。
 連日の猛暑,酷暑で熱中症,熱中症とかまびすしいけど,ビアガーデンは儲かって儲かって笑いがとまるまい。醸造メーカーもそうだね。

● ガリガリ君も売れに売れて,生産が追いつかないくらいじゃないか。赤城乳業はウッハウハだろうなぁ。
 エアコンも売れて,電気店もひと息ついているかも。
 ソーメンも売れているだろう。ソーメンが売れれば,麺つゆも売れるだろうし,惣菜売場では天ぷらもよく出ているのでは。

● 需要があって,それに応じているから結果的に儲かる。儲けるのはぜんぜん悪いことじゃない。人様のお役に立っているということだ(そうじゃない儲け方もかなりあるけど)。
 あまりに長いスパンで見ちゃうと,それが成立しなくなるっていうか,すべては虚しくなるんだけど,そういう罠に落ちないように注意して,儲けてもらいたいものだ。
 数年前に,前半は猛暑だったのに後半涼しくなって,これらの業界がずっこけたことがあったけど,今年はどうなんだろ。

● でもあれだってね,35度を超えちゃうとビールの需要ってかえって落ちるんだってね。
 デパート屋上のビアガーデンですら灼熱地獄になって,ビールを飲んだくらいじゃ追っつかないのかねぇ。ビールを処理する肝臓や胃腸がヘタってしまうからかい?

● それにしても,アッツイねぇ。
 近くにビアガーデンなんかないしなぁ。ぼくは家でハイボールを飲むよ。

2018.07.17 Facebook雑感2

● 今のネットでの発信状況は,発信者1に対して受信者1になっているのではないかと思っていた。ブログやSNSの普及で誰もが発信者になっているから,読み手がいない,と。
 が,FBでも毎日投稿している人は少ない。週1くらいが圧倒的多数。完全に休眠した人もいる。
 ということは,まだ“発信者<受信者”が成立しているのかもしれない。

● 書くことの障壁はだいぶ下がったように思えるのだが,まだそういう現実にはなっていないのか。FBでも140字を超える投稿は少ない現状を見ると,さらにそうかもしれないと思う。
 かといって,長文が短文より面白いというわけではないし,短文に慣れたネットユーザーに長文を読んでもらうのは難しいかもしれない。

● ぼくはInstagramの世界は知らないのだけども,FBもTwitterも写真がメインで文章は添えものになっている。写真と文章では情報量がまるで違うから,この流れはおそらく変わらないと思われる。
 今後,“発信者=受信者”さらには“発信者>受信者”となることもあるのかもしれないけれども,発信の手段は文章よりは写真,さらには動画がメインになるのだろう。

● パソコンのハードディスクに溜めていくのと,ネットに公開するのとでは,持続のモチベーションがだいぶ違う。というか,一度公開して誰かに読んでもらえる快感を知ってしまうと,単にハードディスクに溜めていくやり方には戻れない。
 FBについて色々と文句を言っているが,それでも止めることができないでいるのは,そこに理由がある。受信するだけならとっくに止めていたかも。

● ともあれ,まだ書き手よりは読み手の方が多いようだ。正確には,頭数は同じかもしれないけれども,書いている時間よりは読んでいる時間の方が長いという人が,現状では多いと思われる。
 そういう間は,自分のようなものでも発信(垂れ流しといった方が正確)の余地はあるのかなと思っている。

2018年7月15日日曜日

2018.07.15 ふみの森もてぎ

● 初めて訪ねる機会を得た。“ふみの森”とはそも何もの? 町立図書館だ。
 ただし,最近の図書館は図書館としての単機能しか持たないところはほぼないだろう。コミュニティーセンターの機能が付加されているのが普通だ。会議室というか談話室のようなものがあり,ロビーをゆったり取って立って駄弁れるようにしてある。
 コンサートを開けるホールまで備えているところがある。壁は絵画や写真を掲示して即席ギャラリーになるように設えられている。ぼくが知る限りでは宇都宮市立南図書館が典型的な例だ。

● “ふみの森もてぎ”もそうなっている(ホールはないけれど)。展示もできる。会議や講演にも対応できる。“茂木町まちなか文化交流館”と名乗っているのだ。
 開館して2年になるらしい。町有林材を多用しているようで,木の香りがまだ残っていた。かなりの予算をかけた高級な造りだ(と思われる)。

● まず,スペースがゆったりしている。書架の配置もゆったり。本を読むための机と椅子もかなりゆったり。一人あたりのスペースが広い。
 書架は1階と2階にある。最大の特徴は,図書館で一般的に採用されているNDC分類ではない並べ方をしていること。書店の並べ方に近い。この方が探しやすいかもしれない。
 今はネット検索できるようになっているから,借りたい本やCDは予め検索して,番号を控えておけばいいわけで,並べ方はどうでもという感じもするのではあるけれど,書架を見ながら読んでみたい本を探すことも当然あるわけで,これはかなりの工夫だと見る。

● 1階には学習室がある。が,中に誰もいないのだ。休日の図書館で学習室に誰もいないという光景は,初めて見るものだった。普通は,中学生や高校生で満席になっているものだが。
 ちなみに,図書館の学習室で集中して勉強している生徒はほとんどいないというのも,ぼくの経験則だ。半ば以上は友人とお喋りするために来ているのではないかと思うことが多い。つまり,学習室は意外にうるさいところだ。

● では,茂木の中学生や高校生は図書館に来ないのかというと,そうではない。学習室ではなく,閲覧室の回廊(?)に設けられている机に座って勉強しているのだった。学習室より居心地がいいようなのだ。なにせ空いているのだ。学習室じゃないところで学習するのに気後れしなくてすむのだ。
 今どきの高校生はスタバとかタリーズを学習室がわりに使っているのであるけれども,茂木にはスタバもタリーズもないかもしれない。だから,これでコーヒーを飲みながら勉強できたら最高なのになぁと彼ら彼女らは思っているかもしれない。

読書室のブース。荷物もデスクに置ける
● 学習室や回廊のデスクのほかに,2階には読書室があった。こちらは大人向けのスペースなのだろう。書架の本をここでゆっくり読む,と。
 ここもガラガラなのだった。繰り返すが,休日の午後なのだ。
 外は酷暑なのだ。冷房が効いているここで,本を読まずとも居眠りをして過ごすこともできそうなのに,これだけ空いているのだ。

● 過疎地に住むことの得というのを思ってみた。こういう図書館を使えるのは大いなる得ではないか。
 借りる人も少ないから本も良好な状態で保管されている。宇都宮の図書館だとそうはいかない。とっかえひっかえ借りられるから,すぐにガタガタになってしまう。
 第一,図書館は本を借りるところではあっても,そこで本を読むには適さないところであることが多いのだ。ここは館内で本を読むことができる。そんな図書館はめったにないものだ。

● 過疎化というのは人口が減ることのほかに,年寄り率が増えることでもある。年寄りだらけになるのが,過疎地なのだ。
 自分もそう呼ばれる年齢になりつつあるのだけれども,年寄りが年寄りどうしでツルむほどつまらないことはない。どこぞにハイキングか山登りに行くとおぼしき爺婆のグループに電車内で遭遇することがある(これから増える時期だ)。大変に賑やかで周囲の顰蹙を買うのが常なのだが,爺婆でハイキングに行って何が面白いのかと思う。同窓会の開催に熱心な年寄りとかねぇ,何を考えているんだろう。

● 年寄りになったら,自分よりずっと若い人たちと付き合うべきなのだ。そうでなかったら長生きした甲斐がないじゃないか。
 しかし,そのためには,この人となら一緒に時間を使ってもいいと,若い人に思ってもらえる年寄りにならないといけない。そんな年寄りはめったにいない。
 が,付き合えはしなくても,彼らの近くで彼らの空気を感じることはできる。そのためにこういう施設を使うことはできないか。

● 施設側が想定した使い方,提唱する使い方ではなく,不純に満ちた動機(?)で使ってみる。施設を自分に引き寄せて,どういう使い方ができるか。
 それを考えてみるのが,過疎地に限らず,これからの年寄りが年寄り力を問われる局面になるのではないか。その程度の柔軟性は持っていた方がいいように思う。

2018.07.15 JRの“トクトク切符”-北海道&東日本パス

● 7日間有効で10,850円。ということは,1日あたり1,550円ってことなんですが。「青春18」よりずっと安いんですが。
 この切符は前からあったものだけど,値下げしたんですかね。前はここまで安くはなかったような。

● 道内を普通列車だけで移動するのは,なかなかにトライアル過ぎると思われる。ので,特急オプション券もあるんですな。が,こちらは1日あたり6,000円。
 北海道には行かないで,東日本のエリアだけを回るんだったら,この切符は破格に安い。

● ま,今は使えない。老後の楽しみにおっておく(すでに老後なのだが)。とっておいても,たぶん使うことはないとも思うんだが。

● 昔の話をしてはいけないんだけど,ワイド周遊券っていうのがあってね。北海道ワイド周遊券,東北ワイド周遊券・・・・・・。
 エリア内は特急の自由席までは周遊券だけで乗れた。出発地からエリアまでは急行には乗れた。なので,今はなき「八甲田」や「津軽」といった,夜行(寝台なし)急行で青森まで行くとかしたもんだった。

● 面白かったかと言われれば,別にってことなんだけどね。それでも,未知に踏みこむ的な高揚感はあったと記憶している。そんなことで高揚感を味わえたんだから,古き良き時代であったのかもしれない。
 当時のワイド周遊券が今あったとしても,今どきの若者はおそらく使うまい。車で行こうとするはずだ。高速料金を払っても,車の方が安い。いや,今の若者は車に興味がなかったのか。うぅ~ん,どうするんだろうかな。

2018.07.15 JRの “トクトク切符”-休日おでかけパス

● 昨日もお世話になった「休日おでかけパス」。
 安くなるのもありがたいし,それ以上に,都内を動くときにいちいち切符を買わなくてすむ(Suica持ってないんで)。

● あと,自動改札機を通れるのも吉。「青春18」だと有人改札を通らなくちゃいけないんで,そこがちょっと面倒なんだよね。

● 復りは宇都宮まで乗って,自動精算機で精算できる。自治医大駅で降りる必要はありもはん。

● ちなみにこの切符,りんかい線と東京モノレールにも乗れるうえに,青梅線と五日市線と横須賀線と成田線は終点まで,中央線は大月まで,東海道線は小田原まで行ける。
 1日,目いっぱい乗ってみようかと思わせますなぁ。成田空港まで行くときは,パスポートもお忘れなく。

● ぼくは乗り鉄の成分が濃い方なので,どこかに行くために乗るよりも,乗るためにどこかに行く,ということが多い。
 このエリアはすべて一度は乗っているし,まもなく「青春18」が使えるようになるので,行こうと思えば「青春18」でもっと遠くに行けるわけだから,この切符はやはり東京(あるいは首都圏)まで日帰りするときに使うものかな。

2018.07.15 東京の中心は新橋

● 上野東京ライン。開通前は自分には関係ないと思ってた。上野界隈で用が足りるし,東京より南に行くことなんかそんなにないし,みたいな。
 そのわりには開通日(平成27年3月14日)にわざわざ乗りにいったんだけど。こうなるのね,と。さほどの感慨はないよね。車窓の風景は山手線で見なれてるんだから。
 いったん上野に戻って,今度は山手線を東京まで乗ってみた。上野東京ラインの第1目的は山手線の混雑緩和。それは間違いなく果たせてることを確認したというわけでした。

● ところがねぇ,これ,すっげぇ便利。自らの不明を恥じますよ。
 新橋に停車することが決定的に大きかった。ぼくの場合は。それまでの上野駅のターミナル機能がそっくり(東京じゃなく)新橋に移った感じ。新橋が東京の中心というか,新橋を起点にして発想するようになった。

● 新橋の使い勝手のいいこと。銀座線に乗り換えられるのは安心材料。
 それより何より,新橋の雰囲気が自分にピッタリ。まわりを銀座や虎ノ門のような高台に囲まれていて,新橋は谷間。イメージ的にね。その谷間にいろんなものが吹き溜まってくる。
 その感じがとても良くて,新橋は何というか,癒やしの場所だ。

● 目下,東京で一番好きな場所はSL広場。ぼく的日本の総鎮守は烏森神社。
 なので,上野東京ライン開通以来,初詣は烏森神社だ。初詣のために新橋に行くことはないけれども,1月中には必ず東京に出るもんね。

● その代り,東京駅は素通りするようになった。東京駅で乗降する頻度は,上野東京ラインの開通前より減っている。というか,激減している。
 それもJR側の狙いだったのかと思うほどだ。東京,新宿,上野に集まっているターミナル機能を分散したい,って。

● 京葉線に乗らなくなったってのもあるんだけど,日本の玄関駅でございという佇まいが気に入らなくなったといいますかね。とりつく島もない。
 東京駅が変わったんじゃなくて(丸の内側の大規模改装のときに,構内の商業施設もかなり変えていて,ひょっとするとそれも影響しているかも),こちらの気分が変わったってことなんだけど。

● 昨日は錦糸町に出たわけですが。
 上野→秋葉原→錦糸町とたどるか,東京まで行ってしまって総武線に乗り換えるか。ちょっと考えた。結局,乗換えが少ないからと,後者を選んだ。
 東京駅での総武線ホームまでの移動距離の長さを失念してた。東京駅の構内をズーッと歩いてくのって,ストレスになるよね。上野で降りとくんだったと,けっこう深刻に思ったんでした。

2018年7月14日土曜日

2018.07.14 東京散歩 錦糸町~住吉

● さて東京に出るのだ。自治医大駅で途中下車して「休日おでかけパス」を購入。当然,自治医大駅からは1本遅い電車になるんだけど,その分,早く家を出ればいいんだからね。ぼく,ぜんぜんお忙氏じゃないんで,そのあたりは問題ない。
 「青春18」はまだ使えないんだよね。20日からだっけ。

● 錦糸町駅の南口を出て住吉まで歩いた。北口(スカイツリーがある方)に出ることが多いんだけど,久しぶりの南口。
 幹線道路は四つ目通り。数年前,東陽町から錦糸町まで四つ目通りを歩いたことがある。

● 猿江恩賜公園。広大な面積。錦糸町と住吉の間は,そっくりこの公園になっていると言ってもいいくらい。
 テニスコートが何面もあって,ぼくより年上と思われる爺様もテニスに興じていた。高校生なら知らず,爺様がこの暑さでテニスなんかやったんじゃ緩慢な自殺じゃないか。大丈夫か。

● でも,若い女の子とダブルスを組んでたりするんだよな。どういうグループなんだろうな。若い男性は混ざってないんですよ。
 ともあれ。爺様の寿命はかえって延びるか。長生きしなさいよぉ。
 テニスって一時廃れたと見えたんだけど,錦織効果ですかねぇ。

● 錦糸町の南口,どんな印象かというと,昼間から飲みだすのに抵抗がない街っていうかね。実際,飲んでる人がいたしね。ファミマの脇で缶ビールを飲んでいる爺様がいた。堅気の爺様だと思いますよ。暑くて面白いように汗が出るから,ビールはわからんでもないんだが。
 要するに,面白そうなところですよね。

● 錦糸町駅近くの「松屋」で遅めの昼食というか早めの夕食というか。牛丼に生卵。いつも吉野家で食べているのと同じものを注文。値段も同じ。
 「松屋」では味噌汁が付いてくる。その分,「松屋」がお得かというと,そこは何とも微妙であります。

● 錦糸町駅に戻ると,ホームの立ち食いそばスタンドがお待ちかね。。よほど食べちゃおうかと思ったんだけど,さすがにここは思いとどまる。食べようとすれば食べれたと思うんですけどね。
 速食美味。ファストフードの真髄でありましょうな。わが日本国にはアメリカからハンバーガーが入ってくる前から,ファストフードがあったわけだよね。
 っていうか,日本の食べものってあら方ファストフードだったんじゃないかと思うんですけど。蕎麦は典型的にそうだし(今でいう立ち食い蕎麦が蕎麦の食べ方の元祖じゃないか),丼ものもそうだし。

● そして,最後は新橋へ。隣が銀座で,虎ノ門も徒歩圏内。ここだけが谷間のように大衆が集う。
 ここでホッとしてから家路につく。いつものパターン。

2018年7月13日金曜日

2018.07.13 大学をリスペクトしていた若い頃

● 大昔。社会人となって4年後。大学にいたのと同じ年月が過ぎてしまったのだなぁと,いささか感慨にふけったものだった。
 いつだったか,母を連れて大学のある街を訪れた。夜,一人で大学周辺を歩いてみた。頬ずりしたくなるほどの懐かしさを感じた。

● その後,大学の記憶は急速に薄れていった。今,行っても,何の感慨もないだろう。地方都市のひとつとして受けとめるだけだろう。
 それはそういうものだし,それでいいと思っている。自分の過去を相対化するっていう大げさな話じゃなくて,(時間的に)あまりに遠く隔たった自分はもはや他人になる。

● 大学は知の殿堂でありリスペクトできるものだと,30代の半ばまで思っていた。今はインターネットに知が詰まっている。スマホでアクセスできる。誰でも掌に大学を載せているのだ。
 オックスフォード大学やハーバード大学や東京大学といった組織体は,極端にいえば,なくてもいい。驚くべき時代になったものだ。
 つまり,その気になれば大学に行かなくても,大学生がやっているような勉強を大学生がやっているようなやり方で勉強できる時代だ。

● 大学の機能はもはや学士や修士の学位を発行することだけになっている。その学位なるものの価値は,絶賛暴落中だ。暴落するとどうなるかというと,基本の部分,つまり地頭の良し悪しが喫水線の上に浮かびあがってくる。
 大学に行こうが学位を取ろうが,バカはバカだよね,ってことになる。

● その暴落したものにまだこだわっている人がいる。くだらんことだ。
 現状では医者になろうとすれば大学に行くしかないし,学校の先生になりたい場合も同様だけれども,さてさて,こうした制度もいつまで続くか。
 医師や教師にこだわらないのであれば,大学に行ってしまうのは4年間をドブに捨てるのと同じかもしれない。本当にデキる高校生は,すでに大学を見棄て始めているのではないかと思う。

● ちなみに,大学に限らないが,卒業証書などというものは,とっくの昔に処分している。ゴミに出した。保存しておく理由がない。
 インターネットやITが普及する前から,卒業証書の賞味期限は長くて10年と言われていた。そりゃそうだと納得した。

● ああいうものは,生きている間に自分で処分しておくべきものだ。残してしまうと,遺族(たいていの場合は奥さん)が処分することになる。亡くなった夫の卒業証書を処分するのがイヤじゃない奥さんはいないだろう。かといって,自分がやらなければ子供にツケを残すことになる。複雑な気分を抱えながら処理することになるだろう。
 そういうことを自分以外の人間にさせてはいけない。自分でやっておくべきだ。

2018.07.13 鰻資源は枯渇??

● 右は今日の下野新聞。
 鰻資源は専門家の努力もあるし,いずれ回復する。さほど心配することはない。が,今年や来年という話ではない。
 しばらく前に鮪について同じことが言われた。鮨屋から鮪が消える的な。しかし,そういうことにはならなかった。百均寿司でも鮪はふんだんに出ている。

● 鰻はこの世からいずれ消える,今のうちに食べておかないと,と煽られるような気分になったときには,ちょっと待てよと立ちどまってみるのがいいだろう。まず,この報道で儲かる人間はいないかと考えてみる。

● 鮪がなくなることがそんなに大変なことか。そのことによってあなたは死ぬのか。鰻がなくなったら,あなたの人生は成立しなくなるのか。
 まずは,そこから出発だ。ぼく一個についていえば,鮪も鰻も好きだけれども,ないと絶対に困るものではない。
 鰻資源は回復するとぼくは見ているけれども,なくなればなくなったで別にかまわないくらいに思っている。多くの人がそう思うようになると,世の中,だいぶ静かになるのにな,とも思っている。

● 目下のところは資源が減っているんだから,需要が変わらなければ,末端価格が上昇するのはあたりまえ。その価格を払ってでも食べたい人が食べればいい。
 価格が上がったことじたいを批判するのは(そんな人はいないかもしれないが),感情論以前の的外れだ。地球と月が引き合っているのはけしからん,と万有引力に文句をつけるようなものだ。

● 土曜丑の日に鰻というのは,バレンタインデーのチョコレートと同じで,業界の誰かが作ったものだろう(平賀源内という説もあるけれど)。その人は知恵者だと尊敬はするけれどもね。
 鰻もチョコレートも旨いものなんだから,食べたいときにちょびっと食べるのがいいのでは。つまり,需要がピークになるとき日に,わざわざ食べなくてもよかろうと思うわけだが。
 ぼくは東京に行った折に,「おむすび権米衛」で“うなぎむすび”を買って食べようと思っている。

2018.07.13 Facebook雑感

● Twitterのツイートはフォロワーの枠を超えて,読まれるときにはかなりの数の人に読んでもらえる。FBも同じなんだろうか。直接には“友だち”にしか流れないはずだが,“友だち”以外にも読まれているんだろうか。
 Twitterはフォロワーの外側が見えやすいのに対して,FBは“友だち”の外側が見えにくい。“友だち”以外の“いいね!”が付けば,“友だち”の先があることが体感できるんだけど,そんなことは滅多にないしね。

● 自分自身も,TwitterやFBでフォローの枠を超えて検索をかけたことが一度もないので,このあたりがわかりにくい。
 ただ,FBはGoogleの検索にかからないので,閉じられた世界だという趣が強くなる。公開制限なしで投稿したところで,届く範囲はFBユーザーの枠内にとどまるわけだから。

● FBにはそれゆえのFBの良さがあるのだと思うのだが,“友だち”が“いいね!”すると,その“友だち”の“友だち”にまでは確実に広がったものが,今はFBの仕様が変わって,その広がりが遮断されている。
 結果,FBの閉鎖性が際立つことになった。その枠内でコミュニケーションを楽しむことがFBでできることの大半だとすると,なんだかFBはつまらない。

● FBで“友だち”になるならアクティブユーザーがいい。“友だち”が数百人もいるのに“いいね!”が10とかいう例もある。
 投稿がつまらないからというのが第一の理由だろうけど,“友だち”の多くがFBを休眠しているのではないだろうか。そういう“友だち”をいくら増やしても仕方がない。

● 一方で,FBのようなものにその意味での効率を求めるのは間違っているような気もする。ゴミを抱えながら総体を増やしていくしかないのかも。
 ぼくの数少ない“友だち”の中にも,FBを毎日更新している人はひとりもいない。みんな,ゆっくりやっている。ぼくのようにのべつFBやTwitterを開いて,時間を喰われて困ると言っている人は,そんなにいないのかもね。

● しかし,FB,このままでいいのか。最低限,Googleの検索を受け入れたらどうか。
 現状では最大限,FBユーザーにしか読まれないのだ。そのユーザーもかなりの勢いで減っているのではないか(サイトを閉じる人は少ないだろう。面倒だから。が,放置を決めこむ人は日々積み重なっているはず)。
 いや,もともとそんなに読まれるはずのない投稿ではあるのだが,広がりの枠を最初からはめられているのとそうでないのとでは,気分が違う。

● ぼくもそうなのだが,ログ代わりにFBに投稿している人もいると思う。日記代わり,業務日誌代わり。
 というか,そういう人の方が多いのではないか。人を喜ばせようとか驚かせようとか,そういうことのために投稿するのじゃなくて。
 そういう人はFBにあげて終わりじゃなくて,FB以外のところに同じものを作っておいた方がいいんじゃないかと思う。FBは消えるかもしれない。サービス停止というのが現実にあるんじゃないかと思うようになっている。

● Twitterには140字の制限があるが(今では,事実上撤廃されたと言えなくもない。分割投稿を前提にしたフォームになったから),FBでも140字を超える投稿はあまりない。ほとんどの人がスマホで投稿しているからだろう。
 ともかく,そういう状況なら,同じものをTwitterにもあげておいた方が安全ではないか,と思う今日この頃。

2018年7月12日木曜日

2018.07.12 NHK-FMの「夜のプレイリスト」

● 通勤のときはNHK-FMをつけっぱにしておく。帰りに「夜のプレイリスト」を聴けることがある。
 今週のパーソナリティーは荒木由美子で,9日は由紀さおり,10日は山口百恵,11日はクリフ・リチャードを紹介してた。

● ぼくが少年だった頃は歌謡番組の全盛期。TVで歌謡番組がない日はなかったくらい。黒柳徹子だの玉置宏だの,名物司会者もいたっけな。
 なので,由紀さおりも山口百恵もリアルタイムで聴いた世代なのだけども,少年は何もわかっていなかったかもしれん。今聴くと,由紀さおり,凄いじゃん,とか思うんですよね。

● 同じ番組で以前に越路吹雪が紹介されたことがあって,そのときにはのけぞってしまった。これを知らないまま自分はこの歳になってしまったのか,と思って。

● でも,じゃあ越路吹雪のCDを揃えてちゃんと聴いてみようか,とはならないんだよね。日々の雑事に紛れてしまうというより,そういう刺激ってその場限りで終わってしまうんだね。
 スマホに「らじる★らじる」を入れておけば,一定期間,好きな時間に聴けるんだけど,それすらやってない。

● 荒木由美子も,おっ,懐かしいな,とか思うわけですよ。榊原郁恵と同期でしたか。でもって,ネットでアイドルだった頃の写真を見て,それで終わっちゃう。
 こうして人は一生を終えるのかなぁと思ってね。だとすると,たとえ100歳まで生きたとしても,自分は何もしないまま息絶えるんだなと思うに違いなくてね。
 何だか,そんなことを思ってみたんでした。ヒマだからね,オレ。

● ところで。右の写真はその荒木由美子のアイドル時代と現在。現在の方がいいね。珍しい例だな。
 彼女,23歳で湯原昌幸と結婚して芸能界を引退したんだよね。湯原昌幸は36歳。げっ,そんな爺と結婚するのかと思ったんだった。
 今は男性の結婚平均年齢ってそんなものになってる。隔世の感があるというか,子供時代が長く続くようになったんだねぇ。じつは,ぼくが結婚したのはもっと歳を喰ってからなんだが。

2018年7月11日水曜日

2018.07.11 ガリガリ君が救世主になる季節

● 氏家の「BIG」で“大人なガリガリ君グレープフルーツ”が47円で売られていた。4本しか残ってなかった。残念。ゴソッと買い占めたかったぞ。
 驚異の果汁55%。これ,生のグレープフルーツより旨いと思うんだよね。

● その“大人なガリガリ君”はとっておくことにして,まずこちらで身体を冷やしておりますよ。ロッテのスイカバーですな。
 “ガリガリ君スイカ”は,今年はまだ見かけておりませぬ。生産をやめちゃったのかな。これは不思議な味で,スイカだと思えばスイカの味がするし,イチゴだと思えばイチゴの味がする。で,成分表を見れば,リンゴ果汁が使われている。
 ロッテのスイカバーには若干ながらスイカ果汁が使用されておりますよ。

● ぼくはこれらをわりと大量に消費するので,安く買えるところの目星は付けている。ガリガリ君に関しては氏家の「BIG」「ベイシア」と高根沢の「とりせん」。
 ガリガリ君には多くの種類があるけれども,店によって取扱い品目に違いがある。絶対にこれじゃなくちゃというのはないんだけど,上記のいずれにも“スイカ”がない。今年は“スイカ”は販売しないんだろうか。

● 中でも,「BIG」は“大人な”と“リッチ”の特定の種類のものを信じられない価格で売ってくれることがあるので,要チェック店の筆頭なのだ。

2018.07.11 「みやこ家」であっさり煮干しつけ麺

● 氏家の「登竜」に行ったのは先月の27日。チャーハンセットを食べた。2週間しか経っていないんだけど,今日はレバニラ炒め定食を食べようと(本当はレバニラ炒めを肴にハイボールを飲みたいのだが),行ってみた。
 が,2ヶ所ある駐車場が満杯だった。アッチャッチャ,「登竜」にはこれがあるんだな。それだけ支持されているということなんだけど。

● 胃はレバニラ炒め定食がやってくる準備を始めていたようなのだが,致し方なし。ので,もうひとつの「みやこ家」に転進。こちらは先月22日以来。
 原材料値上がりのためやむを得ずだと思われるのだけど,少々の値上げを実施したようだ。

● あっさり煮干しつけ麺の大盛り。チャーシューのかたまりが入っている。ホロホロしてますわ。
 煮干しつけ麺にも濃厚とあっさりがあって,「みやこ家」のことゆえ,あっさりでもけっこう濃厚。麺を味わうには,あっさりの方がいいかなと思ったり,やっぱ濃厚の方が旨いよなと思ったり。

● ほんとに旨いラーメン屋は,メニューにラーメンとチャーシューメンの2つしかなかったりするものだという人もいる。
 さすがに2つということはないけれども,「みやこ家」のメニューもそんなに多い方ではない。というか,ぼくはつけ麺と“まぜそば”しか食べないので,この時期は6種類だ。石焼きつけ麺のあっさりと濃厚,煮干しつけ麺のあっさりと濃厚,カレーつけ麺,それと“まぜそば”の6種。

● 「みやこ家」も出るときにはかなりのお客さんが入っていた。何だろ,今日は何かあったんだろうか。水曜日だから混む日ではないと思うんだが。

2018.07.11 西日本の未曾有の大雨

● 西日本の未曾有の大雨。死者だけを見れば,東日本大震災とは比較にならない。が,屋内で亡くなった人が多いようだ。水の増え方がよほど急だったのだろうか。
 被災した面積を考えると,復旧というか国土回復に要するコストは膨大になるだろう。

● 東日本大震災のとき,西日本は無傷だった。その無傷ですんだ人たちが鋭意,経済活動を継続してくれたことが,東北復興の第一要因であったろう。
 今度はぼくらの番だ。

● 西日本では多くの人が苦しんでいるのに,自分だけがこんなことをしていていいのかと,自分の中から聞こえてくる声に負けないこと。普段と同じように(できれば普段以上に)お金を使うこと。
 ウソつけ,おまえは自分がそうしたいからしてるだけなんじゃないのか,と自分の中の声は,さらに追い打ちをかけてくるだろう。負けてはならぬ。

● ボランティアに出向くのは尊いことだ。募金に応じるのも当然のことだ。が,それ以上に体幹をめぐる血流を細らせないことが重要だと思う。
 そういうものは可視化できない。目に見えない。被災者にも見えない。感謝もされない。あたりまえだ。自分のためにお金を使って感謝されることのあるはずもない。
 しかし,見えないものが具体的に知覚できるものより重要だというのは,しばしばあることだ。細菌もウィルスも神も仏も愛情も希望も,目には見えないものだ。

● 消費に関して萎縮するな。ひるむな。自分の欲望に忠実であれ。明日,ディズニーランドに行くことを予定している人は,必ずそれを実行せよ。
 今,そうであることは難しい。人目を憚ってしまうだろう。が,西日本の復興に必要なものは,まずそれなのだろう。それあればこその自衛隊の活動であり,ボランティアであり,義援金なのだろう。

2018年7月10日火曜日

2018.07.10 栃木の夏観光パンフ

● 最寄駅にあった,栃木の夏観光パンフ。花火大会をはじめ,県内各地のイベントをまとめて,簡潔に紹介するという意図で作られている。小なりといえども,れっきとしたデータベース。
 それはわかるんだけど,読んでいて面白くない。

● 君,これは面白く読めるように作ったもんじゃないんだよ。データベースなんだよ。辞書のようなレファレンスブックとして使ってくれよ。
 それはわかるんだけど,読んでいて面白くない。

● 面白くない理由は,紹介されているイベントが似たり寄ったりのものだからだ。どこでも同じようなことをやっている。だから,わざわざそこに行くこともないと思わせてしまう。
 ま,花火マニアというのはいるかもしれない。そういう人はそちこちの花火大会に出かけていくんだろうが,それはたぶん例外に属する。
 おそらく,栃木県内に限らない。日本全国,似たようなものだ(と思う)。
 
● とにかく,日本の夏は不快指数がとんでも高くなる。暑いだけじゃない,湿度が高い。だから暑さが重くなる。振り払いようがないしつこさを感じる暑さになる。
 この暑さが,北海道から沖縄まで日本を一様に覆う。

● 夏場の観光は,それに対抗するのを第一義とするものになる。全国的に同じ状況なんだから,観光のあり方も似たものにならざるを得ない。
 観光業者にとってはつまらない季節かもしれない。

2018.07.10 スマホはこれからどうなる?

● 職場での雑談。スマホはこれからどういう方向に行くんだろうか,と。
 ぼくなんかは現状で完成形だと思ってしまう。これ以上大きくなっては持ち歩くのに不便だし,小さくなっては操作しづらくなる。せいぜいもっと薄く軽くという方向だろう,と。バッテリーがもっともつようになるとか。

● が,開発する側はそうではないんだろうね。ぼくらの常識では考えつかないようなことを具体的に考えているんだろう。
 少なくとも,考えようとしているだろう。なぜなら,彼らはプロだから。

● ぼくら消費者は,自分が欲しいものが何なのか,普通はわからない。ああなればいいなぁ,こうなればいいなぁ,と思うことはあるんだけども,思ったことも忘れる。
 製品として示されて初めて,そうだ,自分はこういうものが欲しかったのだ,と気がつく。製品として差し出されても,気づくのに時間がかかることさえある。

● スマホがカメラ,携帯音楽プレーヤー,ゲーム機,ボイスレコーダーを駆逐した(iPodはiPhoneに駆逐された)。今,デジカメを買う人は,写真を趣味にしている人だろう。
 これからさらにスマホに駆逐される機械が出るんだろうか。テレビは半ばそうか。ホームシアター関連はどうか。

● ぼくらでは思いもつかないセンサーが開発されて,スマホの用途が画期的に広がることもあるのかなぁ。そうなると,ぼくらはスマホ依存性をますます高めて,スマホに使われる生活を嬉々として送ることになるんだろうかなぁ。

● これから,スマホがどう変わっていくのか。どんなふうに「そうだよ,これが欲しかったんだよ」と驚かせてくれるのか。楽しみなことだ。
 ポスト・スマホが語られることがある。スマートウォッチだとかウェアラブルだとか言われるけれども,ポスト・スマホはさらに進化したスマホではないか。そう思ってしまうのが,浅はかな素人思考というものなんだろうか。

2018年7月9日月曜日

2018.07.09 調べる学習は図書館で?

● 調べる学習か。たしかに,こういう目的で図書館を使えれば理想的。図書館側からしても,利用者にこういう使い方をしてもらえれば,無料の貸本屋などと陰口をたたかれずにすむ。
 ただし,何を調べるか,どのように調べるか,そこを外から与えられたのでは何にもならない。何を調べるかを決めるのが,最もクリエイティブな部分だからだ(と,偉そうに言ってみる)。

● しかし,この調べるという作業をGoogle先生にお願いするというのが,世間で広く見られるわけで。
 実際のところ,どうなんだろ,図書館で書籍を使うのと,Google先生にお願いして次々にサイトを跳んでいくのと,どちらがいいだろうか。

● ぼく程度のネットユーザーだと,非常に単純なタスク(たとえば,外国映画の原題を確認するとか)ならネットの独壇場だけれども,ある程度体系を追っていかなきゃいけないものは,現時点でも書籍を使う方が便利だと思っているが。
 それでも使う人が使えばネットが勝るのかもしれない。特に英語が読めるのならば,ネットは世界のどの図書館にも勝るらしい。

● 調べるにあたって概論的な知識を得ておく必要があるという場合も,ネットは不向き。図書館に籠もった方がいいような気がする。
 ここでも,ネットリテラシーの問題に帰着するのかもしれないけどね。

● ぼくは図書館で調べる学習というのをしたことは一度もない。これからもないだろう。
 図書館は無料の貸本屋として使うのが最も賢い方法だと,どこかで思ってるんだよね。

2018年7月8日日曜日

2018.07.08 久方ぶりに銀座を歩いてみた

● ぼく的に銀座とは並木通りのこと。なぜ? 理由はない。が,並木通りがすなわち銀座。したがって,アップルストアがあるところは銀座ではない。
 初めて,並木通りを歩いたとき,パリのシャンゼリゼ通りより気持ちがときめいたんですよね。何でだろ。

● でも,何度か訪ねるうちに,ここは自分がいるところじゃないという思いがつきまとうになってきた。これは並木通りに限らず,銀座というエリア全体に対してね。
 。街じたいがウィンドウ。通過するだけ。よそ者として眺めるだけで終わる。そこで何かをする(モノを買うとか,誰かの話を聞くとか,足をとめて路上のパフォーマンスを眺めるとか)ことはない。

● ブランドショップになんか用はない(ブランドショップもぼくに用はないだろうけど)。それでも人生の残り期間が長かった頃は,モンブランの店に入って万年筆を見るなんて無謀なことをしたものだ。まだ自分に期するところがあったんだろう。モンブランを使っているオレなんてのを妄想することができた。
 飲食店も高いし。ぼく,銀座では三笠会館にしか入ったことがない。あ,「空也」の最中は何度か買って帰った。高くないもんね,「空也」はね。

● 銀座のクラブっていうのもなぁ,ぼくには関係ない世界だ。きれいなお姉さんにかしずかれて喜んでるのは,爺臭くていけない。
 楽しいのかい? それとも,彼女たちは自分を磨いてくれる研磨剤かい? 楽しいこととか自分を磨いてくれる教材というのは,基本,タダでも手に入るものだが。
 それに,ここ大事なところだけど,“いい女”というのは銀座の独占物じゃない。そこここにいる。よく見てみな,いるから。

● 結局,銀座でぼくが入っていけるところというと,伊東屋かLoFtしかないような。といって,文房具も買わないしね。
 百円ショップで買った安い文具でも買ったら使い切る,ことを自分に課していて。とっかえひっかえ使うもんじゃない。要はケチだからなんだけどさ。
 ので,そうそう頻繁に買うものじゃない。買わないのに店内を通行しても申しわけない。

● 要するに,高級すぎるんだよね,銀座って。で,高級の価値というのが,ぼくにはよくわからない。内容空疎だと思ってしまう。
 使えりゃいいじゃん的なところがある。いわゆる文化というものを解さない人間なのだ。

● 銀座を抜けて新橋に来るとホッとする。何時間でもいられそうな気がする。ぼくには新橋が癒やしの空間だ。
 ほんと,ここ(SL広場)にテントを立てて眠れたら,気持ちいいだろうに。

2018.07.08 シェラトン都ホテルに投宿 2

● ただ,このホテルはとてもいい。値段が手頃というのがまずあるんだけれども,そういうことは置いておいて,まずロビーの雰囲気がいい。柔らかいのだ。このホテルに宿泊したときは,用もないのにロビーをウロウロして過ごす時間が長くなる。
 広すぎず,天井が虚仮威し的に高くもなく。腰をおろせるソファや椅子が多い。

● シェラトンには必ずあるパソコンコーナー。利用者はあまりいない。ので,たいてい空いている。そこに座って,パソコンではなく,自分のスマホをいじったりしてる。
 そうやってロビーを見回していると,スタッフが多いなと思う。主にはベルマン。学校を出たての若い女の子たち。
 それもまた,雰囲気を柔らかくしている理由のひとつかもしれない。

● ホテルの仕事って,AIやロボットで代替できるのがけっこう多そうだ。コンシェルジュ業務なんてのは典型的にそうなんじゃないか。
 実際,「変なホテル」はけっこうな稼働率を維持しているようだし。完全無人は無理としても,人間を減らす余地はかなりありそうだ。

● 「変なホテル」の宿泊料金がいくらなのか知らないけれど,そんなに安いわけでもないのじゃないかと思う。ロボット開発に費用がかかっているだろうから。
 が,それが業界の一般的な傾向になれば,量産効果が効いてくるだろうし,「変なホテル」のような先駆者がストックしたノウハウが活かされるだろうから,気が利くロボットが量産されることだろう。人件費がなくなった分,宿泊料金は安くなる。

● では,名の知れた一流ホテルがロボット化,AI化に動くかというと,これはかなり緩慢になるだろうというのが,一般的な予想だろう。
 サービスとか“おもてなし”の概念を変えなければならない。サービスとは機能だけでなく,それ以外のプラスアルファがあるのだという考え方を。
 あるいは,そのプラスアルファもやれるロボットも開発されるだろうけど。情緒も解析できるだろうから。

● というようなことをツラツラ思いながら,ロビーにたたずんでいる。
 敷地内に庭園があるのもいい。そういうホテルはいくつもあるけれども,造られた庭園が多い。高輪プリンスやニューオータニの庭園も素晴らしいと思うけれど,何となく洗練された西洋風。あるいは,疑似日本風。
 シェラトン都の庭園ももちろん造られたものなんだけれども(法面ももともとの地形ではなく,造成したところがあるはずだ),人工を感じさせない程度に熟している。この時期,高輪プリンスの庭園を歩くのは暑いからやめておくかとなるかもしれないけれども,ここはむしろ暑いときに涼を取れる。もちろん,館内にいた方が涼しいわけだが。

● 万事にほどがいい。高層すぎない。客室が多すぎない。華美に走っていない。
 というわけで,いいホテルなのだ。何度も宿泊して,第二のわが家的な気分も生まれている。
 しかし,ということなのだ。

2018.07.08 西日本の大雨

● ぼくはホテルで快適快適と浮かれているけれど,西日本ではとんでもないことになっている。

● 昭和61年8月の茂木町の大雨で被害を受けた人の話を聞く機会があった。相当な降りなので,逆川を見に行ったらしい。堤防の上端まであと50cmほどあったので,大丈夫かなと思った,と。
 それが,玄関にひたひたと水が入ってきた。アラっと思ったそうだ。靴をあげなきゃ,と。まだ余裕があった。
 それから床上まで水が来るのは速かったらしい。畳を上げようとしたところ,水が噴きあげて畳を浮かすほどだった。2階までは来なかったので助かった,と。
 あるところから急に速くなるので,逃げようと思っても逃げられない状況になる。どこに逃げればいいのかわからなくなるものだそうだ。

● 今回の四国や九州の大雨は,茂木のそれをはるかに凌ぐだろうから,いわゆる冷静な対応をとることは難しかった(というかできなかった)のではないかと推測する。過去になかった雨量なのだ。なす術がなかったのではないか。
 市役所や役場にしても,避難勧告を出すべき水位に至ったの確認して避難勧告を出しているはずだが,今回に限ってはそれでは遅かったかもしれない。気象庁の警報発令ももっと早く出しておくべきだったということになるだろう。その警報を待って動いたのでは,後手後手に回ることになる。
 しかし,すべては結果論,後出しジャンケンの類だ。

● こういうとき,災害本部の足を一番引っぱるのは報道陣だろう。各社が同じ質問の電話をかけるのではなく,報道陣の窓口を一本化できるといい。こんなときにスクープ合戦をやるバカはいないと思うが。
 朝日なりNHKなりのオレ様がオレ様がというビヘイビアは引っ込めてくれるとありがたい。

● 100年に一度とか,50年に一度とか,そういうことを毎年言っているような気がする。要するに,100年に一度や50年に一度という災害が,毎年この国のどこかで起きている。
 “異常気象←温暖化←化石燃料の燃やしすぎ”という理解でいいのか。いいのだとしたら,化石燃料の使用をやめねば。

● あの福島原発事故でも死亡者はゼロだったのだ。自然災害では国内に限っても,毎年2桁の死亡者が出る。原発より石油の方が危険だということではないか。
 だったら,電力は全部原発でまかなえばいいではないか。風力発電とか太陽光発電は残ってもいいが,火力発電は全廃することを目指す。今は原発を全廃する方向のようだが,これ,逆じゃないのか。

● 活断層の上に乗っている原発がある,と。地震が発生したらどうする,と。
 しかし,東日本大震災の揺れだけだったら,あの騒ぎは起きなかった。津波があったからだ。それでも,結局,死者は出さなかった。無能を極めた菅直人政権下だったにもかかわらず,だ。
 だから,活断層の上にある原発も,たとえ地震があっても,それによって死者が出ることはないと予想することは許されるだろう。

● けれども,活断層の上にあるのは原発だけなのか。新幹線や高速道路は活断層の上を走ってないのか。新幹線が活断層の上を走っているときに大きな地震が発生したら,死者を出さずにすむだろうか。ヘタをすると3桁の死者が出るのではないか。
 とすれば,活断層の上にあるもので,まず撤去すべきは原発ではない。新幹線や高速道路ではないか。脱原発を言う人が,そこに触れないのは不思議だ。

● 活断層の上に人家はないのか。もしあるのだったら,立ち退かせなければイカンじゃないか。耐震性のなさは原子力発電所の比ではないはずだ。
 ところが,聞こえてくるのは活断層が直下を走っているとか,活断層が近いとわかると地価が下がってしまうから,公表するなと住民が言っている,といった話だ。
 なのに,原発は撤去? どうも辻褄が合わないような気がするんだが。

● フランスが原発で作った電気を輸入しつつ,自国では原発拒否に動いているドイツのようなことになってはダメなんじゃないか。日本は島国だから,なりたくてもドイツのようにはなれないわけだが。
 電力は全部原発でまかない,自動車はその電気で走らせる。ガソリン車なぞ使用禁止。JRにも全線電化を義務づける。何だったら,製鉄所にも高炉は認めない。全部,電炉にする。
 そうして温暖化の要因(の少なくともひとつ)を撤去する。エルニーニョだのラニーニャだのが起きにくくなるように努める。

● もっとも,異常気象の原因が化石燃料を燃やすことだとは,学術的には解明されていないらしい。化石燃料など燃やそうが燃やすまいが,地球は温暖化に向かっているのかもしれない。
 さらにいえば,毎年2~3万人の自殺者を出しているんだからね,この国は。だから・・・・・・。

2018年7月7日土曜日

2018.07.07 シェラトン都ホテルに投宿

● 1254号室。最上階のスイート。おぉ,すげーじゃん。って,もちろんすごくはない。
 東京五輪が終わるまでは出ないだろうと思っていた,安い宿泊プランが出たということ。2人で泊まって5万円。オールインクルーシブ。京都や大阪に行くのに必要な交通費ですむわけで。

● ホテルってところは,客でいる分には快適この上もない。守られてる感。母親の胎内回帰的な。王侯貴族にでもなった気分。
 こういうところに馴れてしまうと,ホテルの外に出て行くことができなくなってしまうんじゃないかと思うほどだ。

● いいホテルとは,客の無作法をきちんと指摘して,教育的指導をしてくれるホテルのことかもしれない。ホテルとしてはやりづらいだろうけど。
 客がホテルマンを育てるというのは,今ではフィクションに近いものになっているだろう。客がホテルに育ててもらうのが普通のこと。
 ホテルは教育機関でもあるのだ。そこをきちんと果たしているのがいいホテル,という言い方も成り立つかな,と。

● このホテルに移ってきたのは,かつて定宿にしていたところのラウンジが子連れ客で溢れるようになったからだ。
 ここも,小学生までは無料で利用できることになっている。なので,いずれは同じ状態になるだろうことは想定の範囲内。

● それが現実のものになってきた。昨夜は子連れ客が6組ほど。ホテルの営業方針にそっての行動だから,彼らに非はない。
 ただし,ホテル側がそうしているのは,親が同伴して子供が他に迷惑をかけないようにするという暗黙の前提があってのことだろうと推測する。

● 残念ながら,その前提を満たす親は存在しない。少なくとも,ぼくはまだ出遭ったことがない(自分がそういう親だったとも考えにくい)。
 子供以上に大声をだす親がむしろ普通だと心得なければならない。子供の躾云々以前に,自宅のリビングと公共空間を区別できる親などいないという印象。

● 別のホテルであり得ない光景を目にしたことがある。ラウンジの最も混む時間帯に,親子4人でテーブルを占拠してトランプゲームに興じていたのだ。それ,部屋でやれないか。
 そもそもが,混む時間帯にトランプゲームで空間を占拠するのが論外だし,人が飲食しているところで埃が立つようなことをしているのは,論外以前だ。社会性ゼロ(つまり,バカ)と見ざるを得ない。

● そこまでの光景は今回はなかったけれども,母親がワインをグビリグビリと飲んでいる隣で,小さい女の子がひとりでゲームをしている光景は目にした。ま,女の子はそれでも幸せなのかもしれんが。
 ともあれ,子供が一人で料理を取りに行き,親子ともども大声を出し,その結果,ラウンジから静謐が失われる。その害たるや,煙草の副流煙どころではない。

● 大人の空間に乳幼児を連れてくる親が現れるようになったら,その空間は死んだも同然。元に戻ることはたぶんない。
 できればなのだが,添い寝の子供は宿泊料金が無料なのは当然としても,ラウンジを使う場合は2千円なり3千円なりの料金を取るようにしてもらえるといい。のだが,そこはホテルの営業方針の問題だ。その方針に口を出すつもりはない。

● そろそろ,次のホテルを探さなければなるまい。来月まで相方が予約を入れているので,今すぐということではないけれども。

2017.07.07 「大和久福祉会 パン職人いっぴ」のパン 3

● 昨日,また相方が買ってきた。金曜日に買ってくる。金曜日は相方の職場に販売に出向いてくるんだろうかな。

● 売れるほど赤字になるという(本当か)くるみパンが定番で,これは余計なことをせずにそのまま齧るのが吉。
 1日置いた場合は,半分に割いてオーブントースターで焼く。その場合はマーガリンまではOKだけども,ジャムをつけてしまうとせっかくのパンを台なしにしてしまう。何も付けずに食べるのを前提に,生地の甘さを調整している(ように思える)。

● くるみチョコパンは,普通にデザート的に用いるのがいいと思うんだけど,わが家では主食代わりにしてしまう。

● わが家ではパンはあまり食さない。パンじたいは昔より買いやすくなっているよね。たいていのスーパーにはベーカリーが入るようになった。
 が,それらの中で圧倒的に旨いパン屋があるかといえば・・・・・・なくはないな。

● けれども,あまり買わないね。ぼくがパンを好まないことを相方が知っているからだ。相方自身はときどきパンを食べたくなるらしい。
 なので,「大和久福祉会 パン職人いっぴ」のパンをぼくが気に入ったことで,一番ホッとしているのは相方かもしれない。パンが食べられる,って。

● ぼくがなぜパンを好まないかといえば,非常に逆説的なんだけど,ほぼ毎日パンを食べてるからだ。出勤途中,コンビニによって昼食を調達するのが毎日のこと。
 そのとき,コンビニのパンを買ってしまう。だものだから,パンは食傷気味。休日にまでパンを食べたいとは思わないよ,と。
 でも,「パン職人いっぴ」のパンなら,休日にパンでも許容できるよって感じなんだな。