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2020年9月8日火曜日

2020.09.08 図書館で落語のCDを

宇都宮市立中央図書館
● 宇都宮市立中央図書館。宇都宮市民ではないのだけれども,宇都宮市立図書館を利用させてもらっている。隠居の身なので,宇都宮市に通勤しているわけでもない。広域利用制度というありがたい仕組みのおかげだ。

● 何をしに来たのかといえば,CDを返しに来た。借りているのは落語のCDで,この分野は,ぼくが知る限り,宇都宮市の中央図書館が最も充実している。県立図書館には落語のCDはなかったと思う。
 どのくらい充実しているかといえば,古今亭志ん生(五代目)の全集が2種ある(2種とも全巻揃っているわけではない)。片っ端から借りて,リッピングしてウォークマンなりスマホに転送すれば,寄席を持ち歩くことができる。

● しかも,往年の名人がこちらの気まぐれなリクエストに応えてくれるのだ。おい,今度は「芝浜」を一席やってみてくれ,といえば,ヘィってなもんで,嫌な顔ひとつせずに演ってくれるのだ。
 目下,その作業をやっているわけだ。一度に5枚までしか借りられないので,それなりに時間はかかるが,お金はかからない。1円もかけずにスマホの中に寄席を造ることができるのだ。夢のような時代だな。
 今どきだから,たいていの演目は You Tube に上がっているんだろうけど。

● 問題は,なかなか聴くことができないってことだ。時間がないからなどとは言うまい。時間はあるのだ。隠居なんだから忙しいはずもない。
 ではあるのだけれども,なかなか聴けないでいる。自分は本当に落語が好きなのだろうかと疑うほどだ。落語は無形文化財なのだから教養のひとつとして聴かなければならない,と思って聴こうとしているのではないか,と。

● 落語のほかにも聴きたいもの,観たいものはたくさんあるんだけどね。そのどれにものめり込めていないねぇ。
 Amazonプライムビデオもばったりと見なくなってしまった。見なくなってからかれこれ2ヵ月近くになる。そろそろ態勢の立て直しを考えないとか。

● コロナが収まっていないから,図書館もまだ本調子(?)ではない。長居してないでできるだけ早く帰ってくれ,と館内放送を流している。1時間に1回くらいの割で流しているんだろうかな。
 それでも以前に比べれば,空気は緩くなっている。これを油断と見るか,自然と見るか。見る人の価値観による。価値観というより,頭の癖によると言った方がいいか。

2015年5月28日木曜日

2015.05.26 三遊亭圓歌「中沢家の人々」を聴く

● これは落語といっていいんだろうか。いいんでしょうね。いや,よくないか。落語風漫談? どうもよくわからない。
 わからないけれども,とても面白かったな。1時間ほどの長い話なんだけど,これだけ引っぱり込めるってすごいなと思った。


● 「中沢家の人々」というのは,要するに,圓歌さんが面倒見てる老人6人。自分の両親。亡くなった先妻の親。後添えの両親。
 なんとまぁ,すさまじい。小さな老人ホームを経営しているようなものだ。


● 当然,いろんなことが起こる。お年寄りは大切にしましょう,なんぞという標語ではどうにもならない現実。
 加齢が人を賢くしたり丸くしたりするなんてあり得ない。むしろ,我慢がとれて性格が先鋭的になるのじゃないか。これが6人も同じ屋根の下にいるってことになると・・・・・・。


● しかし,それを圓歌さんは仕切っていく。たいしたものだ。こういうのをタフっていうんだろう。自身も苦労しているから,他人の心の襞への想像力も感嘆もの。

2015年4月27日月曜日

2015.04.27 古今亭志ん生の落語

● 日曜日ごとに聴いている。スマホで。イヤホンを耳に突っこんで。
 ぼくのスマホに入っているのは,次の15の演目。

 淀五郎
 お化け長屋
 黄金餅
 強情灸
 火焔太鼓

 たいこ腹
 粗忽長屋
 替り目
 三枚起請
 宿屋の富

 化物使い
 まんじゅうこわい
 探偵うどん
 唐茄子屋政談
 おせつ徳三郎

● 3週間かけてひととおり聴き終えた。って,今回が初めてではなくて,三度目か四度目。で,この程度でも,志ん生なら何でもいいというわけじゃなくて,好き嫌いができてくる。
 が,当然すぎるけれども,この状態で自分の好きにしたがったんじゃダメだよな,っていう程度のことはわかっている。選り好みをするのはもっとあとでもいい。

● それ以前に,もっと量を聴かないと。志ん生以外の噺家のも。

2015年4月12日日曜日

2015.04.12 古今亭志ん生を聴く

● 「淀五郎」「お化け長屋」「黄金餅」の3つを。もちろん,CD。
 志ん生は,これを含めて15演目のCDを持っている。とても落語ファンを自称するわけにはいかない。実際に聴いている度合いは,さらに落語ファンを名乗るには憚られるほどに少ない。
 一度か二度しか聴いていないと思う。しかも,ずっと離れていて,今回聴いたのは1年ぶりくらいか。

● 志ん生はどの演目でも自分流というか,自分に引き寄せて演ってたようだ。どの噺家もそうだろうと思うんだけど,志ん生の場合はそれが際だっていたらしい。
 「火焔太鼓」でも何でも,志ん生だけを聴いて,これが「火焔太鼓」なのだとは思わないほうがいいようだ。他の噺家のも聴いてみること。

● 落語が全国に広まるのは,ラジオ放送によってではないかと推測する。それ以前は,生で聴くしかなかったわけだから,東京か大阪に住んでいる人でなければ,落語なんて聴けなかっただろう。
 で,ラジオとなると,お客さんがいないスタジオで壁に向かって喋ったんだろうか。だとすると,気が抜けなかったかねぇ。あるいは,寄席でのライヴを録音して流すことが多かったのだろうか。

● そのラジオのマスターテープ,どのくらい残っているんだろうか。残っていたらすごいことになっているんだろうから,あまり残っていないんでしょうかね。