2018年4月30日月曜日

2018.04.30 また新橋

● 錦糸町に行く用事があった。往きは「上野→秋葉原→錦糸町」という経路で。復りは横須賀線直通の電車で新橋に出た。
 復りは新橋に出ることが多い。上野東京ラインの列車が新橋に停まるので,かつての上野駅のターミナル機能がそっくり新橋に移行した感じなのだ。
 東京でもいいんだけど,新橋の方がこぢんまりとしていて,駅として使い勝手がいいというかね。ので,新橋。

● 駅構内の「かのや」で遅い昼食。こういう大衆店は高級レストランなどより粗利がずっと多いんじゃないかと思う。商売は少ないお金持ちよりも,多数の貧乏人を相手にすべし。
 といっても,なかなか大変だろうかね。吉野家や回転寿司だって赤字を出すことがあるもんね。でもああいうのは,スケールメリットを追求しすぎた結果というか,大きすぎるゆえに小回りが利かないってのも理由じゃないのかね。そんなことはない?

● 中国人(たぶん)の女の子がずっとアルバイトを続けている。だいぶ慣れたようで,中で日本人店員(店長だろうか)に話しかけたりもしている。
 日本語にも慣れ,仕事にも慣れたんだろうな。余裕をかましている感じだ。で,凄いなぁと思うわけです,こちらは。
 つまり,自分が中国に行って同じことができるかといえば,まったく自信がないのでね。3日ももたないや。尻尾を巻いて逃げ帰ることになりそうだ。

● 今回も銀座に出る気力はわかなかった。銀座に用なんてないしね。行っても外国人ばかりだし。昔はその外国人が珍しかったけれども,今は雲霞のごとくいるからな。
 あと,あれだ,ぼくひとりで東京に出たときは,ほんとにお金を使わない。今回も電車賃のほかには,「かのや」の690円だけだ。そういう人間が銀座ってあり得ない。

● 最近の変化。復りの車内で酒を飲むことがなくなった。コンビニで缶酎ハイ・缶ハイボールとつまみを買って,車内で飲んでたもんだ。“動くパブ”だなんぞと。それをしなくなった。
 じつは家で飲むことも少なくなっている。最近までほぼ毎日だった。今は平均すると2日に1回くらい。酒を欲しなくなっている。おそらく,社会や世間から一歩引いた位置にいることができるようになったからでしょうなぁ。
 ずっと前から一歩引いてたじゃないか,おまえは,と間違いなく言われそうなんだけどね。

2018年4月29日日曜日

2018.04.29 烏山線沿線ウォーク

参加証のピンバッジ
● 「烏山線沿線ウォーク」に参加。宝積寺駅から烏山駅まで,烏山線に沿って歩くという催し。
 2012年には中止になった。その後,ずっとやってなかったので行事じたいをやめたのかと思ってたんだけど,そんなことはなかったんでした。去年もその前の年も催行されたっぽい。ぼくが知らなかっただけで。
 で,2011年以来の参加になった。9時から受付開始。参加料は300円(保険料)。

● が,今回は午後から用事があったので(自分で勝手に作った用事だけど),烏山駅まで歩くのは最初から諦めていた。大金駅までは行けるかなと思ってたんだけど,時刻表を確認したら,大金発の上りは,10:45のあとは12:49までないのだ。12:49発では午後の用事に間に合わない。10:45までに大金まで歩くのは無理。
 ぼくは歩くのがあまり上手じゃないのだ。速く歩けない。相方と出かけると,あんまり遅いからあなたに合わせるとかえって疲れてしまう,と言われる。
 ま,行けるところまで行くことにする。

● 前を歩いていたのは中年のご婦人の二人連れ。歩く気があるのかないのか,よくわからない歩き方をしている。要するに,やたらに止まっている。道端の草花を愛でているらしい。食べられる草があるらしいのだ。あそこにも,あら,あそこにも。完歩することを第一には考えていない様子だ。
 対して,男性には黙々と歩く人が多い。もちろん風景を見てはいるのだろうが,そのために歩くことをやめることはない。

● これを即,男女の性差に持っていっていいのかどうかはわからないけれども,持っていきたくなる。
 男はその催事のタイトルに縛られる。“ウォーク”なんだから,歩くことが第一だとサッと決めてしまう。そのために参加したんだよ,と。
 一点集中だ。視野狭窄ともいう。だから,途中にあるものを見逃しやすい。

● 2011年まではこの“ウォーク”は3月下旬に行われていた。この時期は生命の芽吹きが一斉に始まる時期なのだろう。歩いていると,だいたいは雑草なのだが,草花の命の上昇気流のようなものをそれこそムワッとするほど感じる。呆然となるほどだ。
 が,4月の下旬ともなると,芽吹きは終わって,安定期に入っているようだ。目眩がするような,空気が重く感じるような,凶暴と言いたくなるような,禍々しさは感じない。
 “Before-After”の違いの乖離ではなく,変化の渦中にこそ勢いは宿るものだ。という,あたりまえのことを思った。

● 下野花岡駅の近くに立派なお寺(地蔵寺)がある。立派かどうかは見る人によるかもしれないけれども,ぼくには立派に見える。
 集落にお寺は欠かせないものだ。人は必ず死ぬ。残った人に落とし前をつけさせる装置として,現状では寺は欠かせない。しかも,これから団塊世代が死亡適齢期を迎える。お寺(と葬儀屋)だけはこれから本格的な繁忙期を迎えることになるわけだ。

● さらに行くと,立派な門構えの豪邸が見えてくる。蔵もあるようだ。もと庄屋の邸宅だろうか。こういうのがいくつもある。庄屋が何人もいたのかね。
 しかし,時代には残酷なところがあって,こういう邸宅を負の遺産にしかねない。外華内貧(という言葉があるのかどうか知らないが)は淘汰される時代に入っている。
 これらの邸宅の内側が貧だと言うのは失礼千万な話であって,内も華かもしれないんだけれど。いや,華に違いないんだろうけど。

● 仁井田駅前の広場に雷の直撃を受けたとおぼしき桜の木があった。枯れてしまったわけではなくて,ちゃんと葉を繁らせている。
 徳俵に足をかけて,かろうじて残っているような様にも見えるが,雷による破損など歯牙にもかけていないようにも見える。にしても,植物をやっていくのも楽じゃないなと思った。

● 結局,その仁井田駅までしか歩けなかった。宝積寺から二駅分を歩いたにすぎない。今回は午後を費やすわけにはいかないのだ。じゃによって。舩山二等兵,ここで戦線を離脱します。
 でも,それなりに面白かったよ。大勢で歩くって楽しいんだわ。別に誰かと話をするわけじゃなくてもね。っていうか,一人で烏山線の沿線を歩いてみたって,面白くも何ともないよね。サイクリングは一人でOKなんだけど,長距離を歩くには今回のような催しを掴まえた方がいいような気がする。

2018年4月28日土曜日

2018.04.28 藤井六段の対局

● 藤井六段の対局のハイライトがいくつもYouTubeに上がっている。わからないくせに,ついつい見てしまう。
 解説者の岡目八目がないような気がするね。対局者ほど読めていない。藤井六段の読みについていけてないっていうかね。

● 終盤では詰将棋で鍛えた読みの力がモノを言うんだろうか。見落とさないんだよね。
 定跡とか常識とか,あんまり藤井六段には関係ないような気がする。そういうものに囚われない人なのかも。人間の思考の癖をわかっていて,そこから自由でいる,という感じ。
 対局態度が図々しく見えるのも特徴。もちろん,感嘆した言い方だ。これなら上位者に臆してしまって普段の力が出せないなどという,素人が考えてしまいがちなことはないんじゃないか。

● 史上最年少のタイトルホルダー,史上最年少の永世称号保持者になるのは,ほとんど間違いないような気がしてきた。最速なら今年中にタイトルを取るかもなぁ。
 負けるとニュースになる棋士になった感がある。29連勝を達成した頃は,勢いがある,調子がいいという見方があったし,ぼくもそう思っていたのだが,もうそうじゃない。これは地力だ。

● おそらく,只今現在,最も強い棋士は藤井六段なのではあるまいか。まるで14歳のときの浅田真央みたいだ。

2018年4月25日水曜日

2018.04.25 食生活 茨城vs栃木

● 宇都宮の餃子が他に比べて特に旨いわけではないように,水戸だからといって納豆が特に旨いわけでもないだろう。もし旨い納豆があるとすれば,よほど丁寧に作っている小メーカーがなければならないが,なかなかそういう小メーカーが生き残れる時代ではない。水戸でもそこは他と変わらないだろう。
 多くの水戸市民,茨城県民はタカノフーズの“おかめ納豆”を食べているに違いない(“天狗納豆”はこちらでは見かけることがない)。ぼくら栃木県民があずま食品の“朝めし太郎”を食べているがごとしだろう。

● ひょっとすると,一人あたりの納豆消費量は栃木が茨城を凌いでいるのではないか,と思ったりもする。海を抱えている茨城には,旨いものがたくさんあるのじゃないかと思うのだ。納豆に頼る必要はさほどにないのではあるまいか。
 栃木はそういうわけにいかない。その昔,下野国の食生活はごく慎ましやかだったのではないかと想像する。ありていに言えば貧しかった。栃木には食文化と呼べるものは育たなかったのではないか。
 それが今でも尾を引いていて,餃子のような安価でそれだけで腹にたまるものや,大豆と納豆菌でできる納豆が好まれているということではないか。

● “しもつかれ”という料理がある。これは鮭を頭まで食べるための工夫だ。鮭の頭を食べるための料理だ。それほどに魚(動物性蛋白質)が貴重だったのだろう。
 ぼくの記憶にも,文字どおり塩の中に漬けこまれた鮭が残っている。塩を落とすなんてことはせず,そのまま焼いて食べた。信じられない塩っぱさで,切り身の4分の1でご飯が1杯喰えた。当時の大家族でも切り身が3つもあれば,おかずはそれで足りたろう。

● 率直にいう。“しもつかれ”は人間が食べるものではない。見かけの問題ではない。それ以前の話だ。そうまでして鮭の頭を食べなくたっていいじゃないか。
 もちろん,今の市販されている“しもつかれ”には,旨くするための工夫がこらされているだろうし,洗練を施されてもいるだろう(ぼくはここ40年ほど“しもつかれ”を食べたことがないので,想像で言っているのだが)。いずれは栃木の観光資源として確固たる地位を占めるのかもしれない。
 が,“しもつかれ”を産んだのは貧しさだ。素寒貧の食生活だ。

● 昔はワラビやゼンマイを摘んで食用にした(今から考えれば贅沢なものを食べていたことになるのかもしれないが)。あとはぜいぜい蕎麦か。祖母がよく蕎麦がきを作っていた。砂糖醤油で食べると旨かった。
 なので,こと食に関しては,栃木県民が他県に対してもの申す的な言い方をしてはいかんと思う。

● その点,茨城には魚があった。生でよし,焼いてよし,揚げてよし。今でも冬の鮟鱇鍋をはじめ(鮟鱇のほとんどは北海道から持ってきたものだとも聞くが),春夏秋冬,食卓が寂しくなることはなかったろう。
 ファストフードがご馳走に思えた人の割合は,茨城よりも栃木が高かったはずだ。栃木にはこれという郷土料理もないのだ。茨城vs栃木となると,茨城の圧勝,栃木の完敗である。

● 一応,念のために申しあげておくけれど,今の栃木に旨いものがないというわけではない。いくつか例をあげよう。
 ひとつは,今市のたまり漬け。たまり醤油で漬けたキュウリや茄子。絶品といっていい。ご飯に載せてよし,日本酒の肴によし。他県から来た人の栃木土産として,もっと使われてもよいのではないかと思っている。
 佐野ラーメン。ラーメンには御当地ラーメンがいくつもあるが,佐野ラーメンが少々以上に地味な存在に甘んじている感があるのは,すこぶる残念だ。佐野の周辺地域が佐野の足を引っぱっているのではないかと思うほどだ。博多や札幌,何するものぞ。喜多方など佐野の足下にも及ばないと思うのだが,いかがか。
 蕎麦。旨い蕎麦は全国にあるものだとは思う。が,ぼくは長野県で蕎麦を食べて旨いと思った記憶がない。栃木の蕎麦は旨い。ここでもぼくは今市を向いてしまうのだが,茂木や烏山,真岡などに,水準を抜く店をいくつか知っている。ダメな店もそれ以上に知っているが。

2018年4月24日火曜日

2018.04.24 中禅寺湖畔

● 右は最寄りのJR駅にあった日光の観光PR紙。栃木県の全国区といえば,はやり日光か。
 このPR紙に写っているのは,旧英国大使館別荘。英国大使が避暑のために住んだのだろう。たぶん,英国大使以外にもそういう人はいたはずで,中禅寺湖畔はセレブが集う場所だったのだろう。これはつまり,場が持つ力であって,その力は現在でも保たれているはずだ。

● 現在の中禅寺湖畔はその力を活かせていない。どこにでもあるような土産物屋と観光客めあての大衆食堂が軒を連ねている。二流の観光地の趣だ。
 が,リッツ・カールトンが開業することが決まっている。中禅寺湖畔が変わるかもしれない。地元では変えることはできない。よそから来た人たちが変えてくれる。
 これ以上悪くなりようがないのだから,良い方向にしか変わりようがない。というわけだから,希望が持てる。

● そうした場の力が感じられるのは,栃木県では2つしかない。ひとつは中禅寺湖畔だが,もうひとつは那須。御用邸があるあたりだ。御用邸を引っぱってこれるのが,場の持つ力だろう。
 ここには「山楽」や「二期倶楽部」など,全国区の高級旅館・ホテルがある。おそらく,“高級”というのはホテルにしても他の施設にしても,施設単体では成立できない。それに適した場がないといけない。

● といって,中禅寺湖まではあまり行ったことがないなぁ。たぶん,十指に満たないだろう。小学校の遠足や,昔あった職場の1泊旅行とか出張とかを含めても。っていうか,自分で行こうと思って行ったことは,一度もない。
 秋の紅葉を見に行くなんて,ぼく的にはあり得ない。殺人的に混む時期に,何でいろは坂をウロウロせねばならんのだ?

● とはいえ。いつか自転車で行ってやろうと思っている。いろは坂を使わないルートで。
 具体的には栗山から戦場ヶ原に出る。が,その後がどうしようもない。片道はいろは坂を通らざるを得ないですねぇ。

2018年4月22日日曜日

2018.04.22 久々の富士そば

● 富士そば池袋西口店。富士山盛り。3玉分。600円。これが完食できるうちは健康だということ。
 そうではあるのだが,いつまでもこういうものを食べていてはいけないな。抑え気味にしていきたいよ。

● 知らない店に入るのは苦手。その苦手度合いがやや極端だと自分では診断している。ので,一人で東京に来て入れる店というと,富士そばか吉野家になってしまいがちだ。
 それではせっかくの機会を取り逃がしているのではないか。自分ではあまりそういうことは考えたことがない。富士そばも吉野家もそこそこ旨い。そこそこ旨ければそれでいいじゃないか。

● 富士そばの全メニューを食べ尽くした,東海林さだお『偉いぞ! 立ち食いそば』はまだ読んでいないけれども,そこそこ派の背中を押してもらえそうなので,いずれその機会を得たい。

● けれども,立食いそば(ここは座って食べる方式だけど)のお世話になるのは,以前に比べると,減っていると思う。理由は単純。家で作った方が旨いと思うようになったからだ。
 なぜそうなったかというと,市販の汁が良くなっているからだ。特にストレートで使うタイプの汁はかなりいいですなぁ。

● 特にこれからの時期,冷やして食べるのならば,セブンプレミアムのストレート汁で問題はほぼ解決する。麺はスーパーで普通に売っている乾麺で問題ない。原価150円で富士山盛りが食べられる。

2018年4月21日土曜日

2018.04.21 週刊誌を読んでみた

● 久しぶりに週刊現代と週刊ポストの今週号を読んでみた。で,感じたこと。
 この両雑誌の読者層は相当に高齢化しているのか。ジジイ御用達の雑誌になってしまったのか。

● なぜそう思ったかというと,高齢者向けの記事が多いのだ。60代や70代になってもHの現役でいるためには,とかね。
 昔は20代の男性にも読者がいたと思うのだが,既存の読者が歳を取るにつれて,読者層が高齢化してきたのだろうか。つまり,読者の新規参入がないようなのだ。

● となると,ジジイが死に絶えれば両雑誌の命運も尽きる。週刊新潮や週刊文春もおそらく同じだろう。
 しかもだ。ジジイになってなおこんなものを読んでいるんだから,読者層の知的水準にも疑問を呈したくなる(→おまえが言うな)。
 紙の男性週刊誌はもう半ば終わっているという印象を受けた。今更の感想かもしれないけれど。

● 総合月刊誌と呼ばれるものはとっくに終わっている。各出版社の顔だったものだから,今でも残っているものもあるんだけれども,かろうじて残っているだけで,世間や社会に爪痕を残すだけの力は失っている(いや,そんな力を持ったことなんて過去にもあったろうか)。図書館が購入をやめたら,即,引退に追い込まれるのではないか。
 週刊誌もそれに続いてしまうんだろう。これ,そっくりネットに移してもダメだと思う。たぶん,読まれない。ネットに移って無料で読めるようになっても,たぶん読まないと思う。そう考える根拠は,自分が読まなくなったことだ。

● 楽天やdocomoが,月額400円とか500円で雑誌読み放題というサービスを提供しているけれども,これだっていつまで存続できるか怪しいものだ。
 じつは,このサービスに食指が動いたことがあった。でも,雑誌を読むだけで1日が終わってしまいそうだと思ってやめたのだ。
 実際はどうだったろう。読むことはなかったかなと思う。