2018年10月31日水曜日

2018.10.31 iPhoneは年寄りの心の友になる

● 相方がめでたくiPhoneXRのユーザーになった。その相方,Siriを知らなかったようだ。ので,教えてあげたんだけど。大きな声で命令(?)していた。めでたく使えるようになったようだ。
 今朝は,ピアノの鍵盤を入れてと言っていた。Siriは「それは無理です。入りません」と答えるかと思いきや,ちゃんと鍵盤アプリをインストールしてくれたようだ。

● 歳をとった人の話し相手になってくれるかもしれない。現状ではお喋りはとても無理だけれども,Siriはどんどん進化していくのだろうから。
 リアルのコミュニケーションが減ってきたときに,Facebookが代用になるかもしれない。ぼくはやめてしまったクチだけども,うまくやれば代用品として使えるかもしれない。

● Facebookはゴミの山で,Facebookを始めるっていうのは,そのゴミの山に分け入っていくことだ。けれども,それはリアルのコミュニケーションでも同じこと。
 どうでもいいことのやりとりがつまりコミュニケーションであるわけで,どうでもよくないことをやりとりしなければならないとなると,大なり小なり緊張感を強いられるはずだ。ときには胃が痛くなるような局面もあるだろう。どうでもいいことをやりとりするから,コミュニケーションは快適なのだ。
 どうでもいいことをやりとりするという点では,Facebookとリアルに変わりはない。

● そこにSiriが話し相手になってくれるとなれば,iPhoneがあれば老後はだいぶ紛れるのではないか。iPhoneは年寄りの心の友になる。
 AndroidのGoogleアシスタントはどうなんだろうか。どうなんだろうかって,ぼくのスマホにも入っているのだから,試してみればいいだけだな。

● SiriにしてもGoogleアシスタントにしても,使い手の情報をたくさん参照できれば,それだけ気の利いた対応ができるはずだろう。
 スケジュールがぜんぶiPhoneかiCloudに入っていて,撮りためた写真もiPhoneに保存されていて,何をするのでもiPhoneアプリを使うようにして,テキストでも何でもiCloudに保存しておくようにすると,Siriって賢いやっちゃなってことになるんだろう。

● SiriはだからiPhoneのヘビーユーザーを作る。ぼくらはますますスマホから離れられなくなる。AppleやGoogleは今よりも多くの個人情報を収集できるようになり,ビッグデータが充実する。いいことじゃないか。っていうか,いい悪いを論じてみても仕方がない。
 個人情報をさしだすことに抵抗はないのかと言われれば,ぼく一個は特段抵抗はない。わざわざぼくを特定して,ぼくの行動や好みを詮索するような暇人は,世界中探してもいないと思うからだ。

● ワープロ専用機が出たときにも,パソコンが出たときにも,これで誰でも秘書を持てるようになったと言われたものだ。そうだったとしても,だいぶ仮想的な秘書だった。姿は見えない,声も聞こえない。
 けれども,Siriは声で話すのだ。性別や方言を選べるのだ。リアルの秘書にだいぶ近づく。

● 紙の手帳やノートだって,声を持たない秘書かアシスタントのようなものだ。ぼくは,目下のところは,そっちの秘書をメインに使っていこうと思っているけど,リアルに近づいた秘書にも魅力を感じる。面白い時代に生きていると思っている。

2018年10月28日日曜日

2018.10.28 iPhoneXRがわが家に来た。ただし,ぼくのじゃない

● 相方のiPhoneXRが届いた。SIMフリー版をApple Storeに注文したらしい。
 が,デザインが気に入らないとか,厚みがあるとか,XSにすればよかったかなとか,罰当たりなことを言っている。iPhone5Sのときも,廉価版の5Cが出たけれど,XSとXRもそれと同じような関係なんだろうか。
 おまえの使い方で何でXSが要るんだよ,と思うけど,黙っている。

● 彼女は6S Plusからの乗換え。しかも,乗換えの理由は6Sを水没させたことだ。なくてもいい出費だったなぁ。
 君の亭主はASUSのZenFone 3Maxを使っているんだからな。値段がどれだけ違うのかわかってるのか。

● 色はコーラル(オレンジ)。本当は赤が良かったらしい。が,職場の隣の人が8plusの赤を使っているので,自分はオレンジにしたという。その色にも不満があるようだ。
 で,ぼくに赤を買えと勧めてくる。iPhoneは使いやすいよ,と。

● ぼくがAndroid派であることは,もちろん知っている。相方はAndroidからiPhoneに移った。そのうえでiPhoneは使いやすいと行っているんだから,たぶん本当にそうなのだろう。
 ただし,相方にとってはそうだということだ。使いやすいも何も,iPhoneに気が行かないんだから仕様がない。

● 以前は音楽もスマホで聴いていた。そのままならハイレゾ対応のスマホじゃないとイヤだとダダをこねたかもしれないけれども,ウォークマンに移行したので,そこはどうでもよくなった。
 昔はワンセグにこだわったりもしていた。が,テレビを見なくなった今は,ワンセグなど邪魔なだけ。

● というわけで,スマホはありきたりのものでいい。バッテリーがさらに保つようになってくれればいいとは思っているけど。
 そりゃ,Galaxy Note9のようなハイスペックがいいに決まっている。でも,自分の使い方はネット閲覧とTwitterにツイートする程度のものだ。ハイエンドマシンは必要ない(あってもいいんだけどね)。

● 相方はスマホで動画を見まくるタイプで,そういう人はハイスペックじゃないと困るかもしれない。その典型はゲームで,要するに遊びに使う方がスペックを要求する。
 昔からそうで,パソコンだって仕事にしか使わないのならMS-Officeが動けばいいんだから,大した性能は要らない。

● ちなみに,新しいiPhoneは反応が速くなったらしい。喜んで使っている。
 妻の喜びは夫の喜びである。めでたし,めでたし。

2018年10月27日土曜日

2018.10.27 宇都宮散歩 JR駅~東武駅

● JRの宇都宮駅から東武駅まで大通りではない道を歩いてみようと思って,実行に及んだ。宮の橋を渡ってから,大通りを南に折れてみる。
 とはいっても,まったく初めての道に遭遇するかというと,なかなかそういうわけには行かない。

● かつて,自分が最も詳しいエリアは泉町だった。給料の大半を飲んじゃってた頃。もう,そんなことはしたくでもできない。
 馴染みの店もすべてなくなっている。泉町に関しては,ぼくはもはや浦島太郎だ。釜川は変わりなく流れているし,建物自体は昔のままだいぶ残っているんだけれども,人は儚いものだなぁと思う。

● よく,人が死んだあとも,残された人たちが自分を憶えていてくれる限り,その人の中で自分は生き続けるのだ,ということが言われるけれども,その人たちもいずれ死ぬ。
 自分が死んだときがすなわち死なのか,自分を憶えてくれている人たちが死に絶えたときに自分も死ぬのか。いずれであっても,さしたる違いはないように思われる。

● そんなことを思いながら,裏通りを歩いている。こちらの感性の問題もあるのかもしれないけれども,特に何を感じるでもない。
 大昔には,このあたりはオカマの娼婦(?)が出没したとか,そういう話を聞かされたことを思いだすんだけど,当時の面影が残っているわけではない。
 今のパルコがあるあたりは,かつては映画館が軒を連ね,屋台が出ててね,などという話も聞くのだけれど,つまるところは年寄りの昔話にすぎぬ。だからどうしたという話だ。でも,場にはそれぞれの力があって,それぞれに相応しい様相を呈するものだという人もいる。

● 三番町,二番町,中河原町,中央本町,宮園町を経由して宇都宮東武百貨店に到着した。
 噂に聞く焼きそばの「石田屋」はここにあったのか,っていうような発見もあった。その発見に何の価値があるのっていうのは,言いっこなしってことで。

● 復路はオリオン通りから大通りを通ってみた。夜の10時。
 数年前は幽霊が出そうなほどにガランとしていたと記憶してるんだけど,いやいやいや,今は賑わっているんでした。しかも,若者が多い。飲み屋にもお客さんがちゃんと入っている。活気がある。景気が良くなっているんですかねぇ。けっこうなことだ。
 大通りは依然として人通りがなく,ひどく暗い。ひょっとすると,オリオン通りの印象も大通りのそれとこっちゃになっていたかもしれない。

2018年10月25日木曜日

2018.10.25 宇都宮散歩 帝京大学~宇都宮美術館

● 宇都宮美術館で開催中の「篠山紀信展 写真の力」を見てこようと思う。宇都宮美術館はわが家からわりと近い。岡本を経由していく。
 宇都宮市街を通らずにすむ。宇都宮市街に出てしまうと三角形の2辺を通る形になる。

● その2辺を通ってみることにした。美術館だけ行ってハイさよならってのも何だし。
 美術館なんてのは,自分の生活には縁がないところで,それでいいと思っているんだけども,宇都宮美術館には一度だけ行ったことがある。

● 宇都宮駅周辺でいくつか用事をすませてから,帝京大学行きのバスに乗った。運賃は片道360円。
 美術館まで行くバスもあるんだけど,本数が少なくなるのと,美術館までバスで行ってしまうと運賃が少々お高くなるので,雨でも降ってない限りは帝京大から歩くのが吉。

● 前回行ったのは休日だった。平日の帝京大のキャンパスはどんな感じなのか,少し楽しみだった。若さが横溢していて,圧倒されるんじゃないか。気持ちよく圧倒されたいものだ。
 が,閑散としている。平日なのに学生さんはあまりいない。ひょっとすると,学生はみな授業に出ているのかもしれないんだけど,それにしてもキャンパスを人が歩いていない。

● 学生1人あたりの敷地の広さは,その辺の国立大学より広いと思う。建物は多いのだが,学生が少ないようなのだ。キャンパスに活気がないという印象にもなる。
 大学の周りに何もないのがちょっと可哀想かな。昔なら“閑静で勉学に好適な環境”ってことになったのかもしれないけれど。

● 帝京大のキャンパスを横切って宇都宮美術館に向かうのは,けっこう上質な散歩道になる。山林を切り開いている。気分がいい。
帝京大から宇都宮美術館に
 ただし,余計なことも考える。このあたりは分譲住宅地でもあるのだが,高島平や多摩ニュータウンと同じで,50年後にはどうなっているか,と。
 子供は1人か2人だろう。その子供たちがここに住むことはない。一代限りの家だ。パパやママは申しわけないけれども,50年後には生きていない。人が住まなくなった家はあっという間に朽ちる。この辺は幽霊屋敷の集合体になるのだ。
宇都宮美術館
 いや,人ごとではなくて,わが家もそうなのだ。そうなる前に処分して,アパートにでも住めればいいと思うのだが,一般住宅など買い手がいまい。

● さて,宇都宮美術館。「篠山紀信展 写真の力」だ。1,000円でチケットを買って入館。
 写真集ですでに見ているものもけっこうあった。なんてったって,篠山紀信だからね。
 写真は写真集で見てもいいわけだ。絵画のように原画と複製という関係には立たない。展示されている写真も複製なのだから。違うのは大きさだけ。“だけ”といっても,大きさの威力というのはあるわけだが。
 圧巻は最も地味な東日本大震災後の被災地の人たちのポートレートだ。そうと知って見るせいもあるのかもしれないけれど,頭の上の空気が重くなったような気がした。

● 入館者の多くは年寄り。平日なのだ。来れるのは年寄りか専業主婦しかいない。その年寄りもそんなに多くはない。それでも通常の企画展よりは多いだろう。
 絵画よりは馴染みがある。人は知らないものより知ってるものに惹かれる。知らないものを知りたいと思うことはないが,知ってるものならもっと知りたいと思うことがある。

● 企画展の他にコレクション展も見てみた。パウル・クレーの絵が5点あった。
 こういうものは出会い頭で勝負が決まるものだと思っているのだけど,ぼくには歯が立たなかった。猫に小判もいいところなのだろう。
 そばに寄って描画の詳細を見てみたんだけども,ぼくが見ても何もわからない。美的感覚がどうのこうのの前に,色の識別能力がまるでなってないんだと思う。

● 帰りも帝京大からバスに乗った。学生さんが10人くらい,バス停のベンチに座っていた。よくいえば静かだ。静かなのは,昔と違ってスマホがあるからだ。それぞれ,無言でスマホをいじっているので,会話が発生しない。
 意地悪い言い方をすれば,パワーを感じない。若くして悟りを開いちゃったのかと訊きたくなる。

2018.10.25 久しぶりにモス

● 宇都宮駅構内のモス。ここ以外のモスに行くことはないから,モス自体がけっこう久しぶりだ。
 そうなった理由は,いくつかある。チーズバーガーのポテトSセットを注文することが多いんだけど,それば660円なのだ。最近はこれを高いと思うようになってしまった。してはいけない贅沢をしている気分。これが第1の理由。

● モスでスマホではなくノートを開くのも久しぶりだ。だいたいはスマホをいじって過ごすようになっていた。ノートに書くくらいなら,スマホでツイートしちゃった方が早いもんな,とか思って。
 ノートを開くんだったらテーブルが必要だから,モスに入る理由がある。でも,スマホなら立ってでも使えるからね。スマホしか使わないなら,モスの必要なし。これが第2の理由。

● で,今日はなんかノートに書きつけたい気分だったので,モスに入ってみたんだけど,モスの隣が吉野家なんだよね。吉野家で注文するのは,牛丼並と生卵に決めていて,これだと440円なんですよ。
 でもって,ぼくはパンも食べるけれども,基本,ご飯粒がいいなぁと思うタイプで。しかも,吉野家の牛丼より旨いものなんてそうそうないぞと思っていて。

● というわけで,660円でグダグダ言ってるヤツって,ねぇ,ケツの穴が小っちぇーなー。

2018年10月22日月曜日

2018.10.22 TDLでハロウィンな人

● 職場での雑談。20日にTDLに行った人がいた。激混みだったらしい。こってりとハロウィンしてる人ばかりで,“みんな,自分が大好きなんだな”と思った由。
 自分を好きなのはいいことだけどね。その表現の仕方に知性の欠落を感じるというだけで。そこから受ける印象は“付和雷同”だからさ。皆がやるから自分もやる,という。

● でも,大勢が集まってワイワイ騒ぐのは楽しいことだし,同じ嗜好を持つ仲間意識も味わえるだろう。自分の工夫を互いに見せ合って,Facebook的な「いいね!」を無言のうちに出し合う。疑似コミュニティができる。
 つらつら思うに,そうした一時的なコミュニティが,これからは重要になるかもしれない。長く続くコミュニティの閉鎖性に穴をあける役割を果たす。安定は必ず閉鎖性を随伴する。この閉鎖性がいろいろと悪さをする。

● 他者がとやかく言うことではない。好きな人が集まってやっていることだ。そういうがイヤな人は,その種の場所に行かなければいいだけのことだ。
 みんな違ってみんないい,というのとはちょっと違うけれども,いろんな人がいていいわけだ。いかにこってりとハロウィンしようと,別に人に迷惑をかけているわけじゃない。
 他者が自分と違うことを責めてはいけない。そう言うおまえは何様だ,ということになる。

● 以上を認めた上で言うんだけれども,それでもあの光景はぼくには異常に映る。何かを捨ててしまった人たちのように見える。
 って,その光景をぼくは見たわけではないんだけれども。

2018年10月20日土曜日

2018.10.20 東京散歩 大手町

● 大手町に行く用事があって出かけた。これまで,まったく縁がなかったエリア。地下鉄の大手町駅で降りたことは二度か三度はあったと思うんだけど。
 そこから東京駅まで歩いたことも一度かニ度はあるかもしれない。が,記憶からは脱落している。

● ビジネス街というか,いろんな企業の本社があって,ビジネスの頭脳の集積地というか。ストレスフルな場所だなぁとしか思ってないもんね。
 エスタブリッシュメントなところ。そういうところで働くことへの憧れなんて若い頃からなかったもんね。それ以前に,そこで働くことに自分が耐えられるとも思えないわけでね。20代の頃はまだ自分に幻想を抱いていたから,そうでもなかったのかもしれないんだけどねぇ。

● 東京駅に到着。まず地下街をフラフラしてみた。「いろり庵きらく」があったので,ここで昼食。東京に来てまで「いろり庵きらく」かよ。
 そうなんですよ。勝手知ったるところじゃないと,臆してしまって,入れないんだよ。東京だからということじゃなく,どこへ行ってもぼくはそうだ。
 ともあれ。ミニかつ丼セット。630円。食べすぎた。歳を考えろ,俺。

● 普段はエリートビジネスマンが闊歩してるんだろうけど,土曜日の今日は,ぼくを含めてお上りさん(観光客ともいう)が多い印象。
 田舎者に言わせればね,こういう光景を見ると,あぁ東京だなぁと思うんですよ。ビルの間にカフェや軽食を食べさせる店があって,半分公園のような広い歩道があって。うわっ,すげぇ,とか思うわけなんですよ。

● 大手町の由来は,当然,千代田のお城の大手門から。千代田城の正面玄関。国道1号線もここから西に延びている。
 いや,ウソ。国道1号線の起点は日本橋。そこから大手町を経て,大阪に至るわけなんだけど,ここが起点でも全然おかしくないという気がする。っていうか,その方がシックリくる。皇居の正面玄関が国道1号線の起点っていうのはわかりやすいもんね。

● 気がついたら雨。でもね,ビルからビルへ,地下鉄の通路を通って,東京駅まで濡れることなく到着できたんでした。
 もっとも,ぼく一人だったらこの行路は択れなかったろう。人の後に付いて行ったら,そうなったっていうことね。
 あいやー,たまげたわぁ。ダンナさぁん,まるで中国みたぁい。
 いや,中国のことは知らないんだけど,今の上海や北京は未来型都市で,当然にしてそうなっているのだろうと思っているわけなんですが。

● ただし,東京駅に着いたら,総武線改札からでも京葉線改札からでも,ともかく駅に入るべし。ここから迷うからね。田舎モノはね。
 地下街って方向感覚がおかしくなる。それでなくても方向オンチなんだから,テキトーに歩いてると,南に向かったつもりが北に来ていたり,西に行ったつもりが東に出ていたなんてことになる。
 駅に入ってしまえば,現在地を特定することはできる。さすがにその程度には東京駅に馴染んでいる。

● とにもかくにも,新橋駅に。が,この雨では,手も足も出ず。傘ないし。あっても,傘なんかさして歩きたくないし。
 というわけで,そのまま帰途に着いた。高崎線の籠原行きに乗った。とりあえず,大宮まで行って乗り換えようと思って。でも,大宮での乗換えるより,さいたま新都心で乗換えてしまった方がストレスが少ないと思って,さいたま新都心で降りてみた。
 さいたま新都心には停まらない電車ってあったっけなぁ。快速だと停まらないのがあったか。