2025年9月29日月曜日

2025.09.29 青森雑感−人口減少と高齢社会

● 今日から青森に4泊するのだが,青森はいいところだ。食の龍宮城だとは何度も書いていることだが,それだけではなく,気持ちが落ち着くたというか,ほぐれるというか。
 ここにいることを身体が喜んでいるのを感じる。

● 理由は? 人口圧がないことだろうか。人に対して構えなくてすむところ。
 この状況を普通は衰退と表現するのだが,衰退にも,過ぎなければという条件を付さなければならないのかもしれないが,味がある。そうして,この味には得がたいものがある。

● 老人が多く,若者が少ない。それはいけないことなのか。一考の余地がある。
 自分自身が老人の側に属する人間だからかもしれないのだが,人工圧がなくて老人が多いというのは,ゆったりさを生む。たぶん,このゆったりした感じが何とも心地いいのだ。

● 華やかさ,贅沢さを排して,ある種,地に足が着いた安心感。人が生きていくのにそんなに多くのモノやサービスは必要なく,必要なものが必要な場所にあればいい。それでかえって快適に生きていけるのではないか。
 過剰な勢いなど要らない。旺盛な向上心も,足りないもの探しも,過ぎれば害を為す。過ぎたるは及ばざるが如しなのではない。過ぎたるは及ばざるに劣るのだ。
 向上心もあり過ぎると,足りないよりも始末が悪い。そういうことを具現化して見せてくれているのが青森なのだという気もする。

● 都市的生活が田舎暮らしよりも上位という,妙な序列意識がある。たぶん,高度経済成長期に醸成されたのだと思うが,まだそれが残存している。都会度を競うようなところがある。GDPがすべてというのもおかしな話だ。
 住んでみなければわからないことが当然ある。旅行者の目線で結論を出してしまってはいけないが,青森はそういう意味でも悪くないなという印象を持っている。

● ぼくの視界に入ってくるのは,外に出ている人たちだけだ。家にこもっているか,何らかの事情があって外に出られない人たちは,ぼくの青森印象からは落ちている。
 ので,青森の実態はぼくにはわからない。それは,しかし,青森に対してだけではなくて,どこに対しても同じだ。
 そこを補正するための手段をぼくは持ち合わせていないので,自分の個人的な印象を組み合わせて推論するしかない。

● かつては,東京が日本人のライフスタイルのお手本だった。その時代とは方向が反転しているのだが,それでもまだ東京の影響力は大きく残っている。
 が,東京をお手本にしたくてもできない時代になった。人口が減少しているのだ。地方ほど減少がキツい。

● そのことが人々の間に定着すれば(もう定着しつつあると思うのだが),東京スタイルの価値は相対的に下がる。東京も地方のひとつになる。そうすることによって,人々は自分たちのスタイルを正当化しようとするはずだからだ。
 高度経済成長期には東京スタイルが自分にも手が届きそうなものに思われたから,憧れの規範になり得た。が,もうそういう状況ではない。東京は東京,自分たちは自分たち。東京スタイルへの憧れは相対的に低下すると予想する。

● インターネットがそれを後押しすることになる。たとえば,青森に住んでいたのではクラシック音楽の演奏会を楽しむことはできない。できなくはないが,年に数回になるだろう(東京に住んでいれば,休日のすべてをそれに充てることができる)。
 しかし,現在ではFMやCDで音声だけを聴くのではなく,You Tube やニコ生で映像も一緒に楽しむことができる。それで良しとするようになるかもしれない。
 当然,生とネット配信では入ってくる情報量にだいぶ差があるはずだ。それでもネット配信で良しとする方に傾く。ネット配信の技術が向上し,生の臨場感のかなりの部分を拾って配信できるようになる可能性も大きい。

● それやこれやで,日本国民の大部分の範であり得た東京スタイルは凋落する。東京も巨大なローカルになり,日本は大小のローカルが入り乱れる乱世になる。それはそれで面白いだろう。
 つまり,高齢社会はむしろ面白さを増大させてくれるかもしれないと,ぼくは期待感を抱いている。

● ここにAIがどう絡んでくるか。ぼくに予想する能力はないが,高齢社会は静態的になるというわけではないかもしれない。
 面白いことになりそうだ。その面白さは生きているうちに味わえそうな気がする。楽しみなことだ。

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